偏光

日常のこと、いろいろ。

就活はクソである。

 就活はクソである。

 クソであるからして,クソ以外の価値がそこに見いだせるはずはない。就職活動中に「わたし,圧倒的成長☆♪( *´艸`)」などというのは虚妄に等しい。実際の就職活動ということを考えてみればそれは歴然たる事実である。

 就職活動の核をなすのは自己分析と,適性検査。つまりは,自己分析においては履歴書やエントリー書類作成のために自分という商品にいかなる魅力があるか,分析するのであり,適性検査対策においては,ひたすら読み,書き,そして数的な処理に柔軟な対応をすべく問題演習に励むのである。これらの過程を経て,無事採用選考へと進むことができる。言うまでもなく採用選考は企業にとってみれば人を選ぶ機会でもあり,悪く言えば上澄みだけを選びその他一切の有象無象は蹴落とすためにある機会なのである。この活動の帰結が「お祈りメール」である。「貴方様の今後今後のますますのご活躍とご多幸をお祈り申し上げまして……」というアレだ。

 落ちたからには原因がある。改善すべきところがある。これには疑いがない。アピール不足であったのか,「自己分析」に足らぬところがあったのか。改善点は早急に正すべきである。学生は,その改善点を認識している場合も勿論あるが,そういったことを大学の就職支援担当部署からアドバイスされたり,先輩や親類からアドバイスされてはじめて気づく物事もあろう。いずれにせよ,改善点はすぐに正すべきである。なぜならば,次の就職活動につながらないばかりでなく,よしんば当該企業に縁あって就職できることとなったとしても,その企業でうまくいかず退職を検討するほかなくなるおそれは十分にあるからである。また仮に,根本的に性格に難ありとなれば,原因を突き止めて早期の解決を図ることが何より望ましい。言わずもがなである。

 そもそも就職活動を何のために行うのかと言えば,ひとえにより良い就職をするために他ならない。大学進学率が増加し大卒というカードを切れる人が約半数にさしかかろうとしていることは今は傍に置いておくとしても,高い授業料を払い続け,ときには奨学金を借りさえして大学に居続け,就職活動をするからには,その大義として確たるもの――より良い就職,ということがあるのである。より良い就職が出来たならばその後のライフプランにもゆとりが生まれ,QOLの向上に直結しうる。恋多き人であれば子どもをもうけ育てていくということさえ考えるだろう。それはそれで大いに結構なことだ。

 このように,就職活動の意義は確かに大きい。私とて,就職活動を行うことの,プラスの面を完全に否定してクソだなどと強い言葉を用いるつもりは毛頭ない。別に今この駄文にて就職活動のメリットを列挙し賛辞を贈る必要性は感じないが,根本的に否定するつもりはないと明言しておこう。だが敢えて言おう。就活は,クソであると。

 就活をクソと断じるからには,私が就活の何をクソと感じているか述べなくてはなるまい。

 まず演技性について語ろう。次に,ピア・プレッシャーについて語ろうと思う。そして最後に,社会に対して呪いを吐いて,己を呪いこの駄文の幕引きとしよう。

 演技性。熱心に活動されておられる高貴なる意識高い系の皆々様にはきっとご理解いただけないのでしょうが,誰もが就職活動に熱心でいられるわけではない。あたかも全員が就職活動においては同じスタートラインに立って,同じように選考に邁進するものと想定されている点がクソである。その想定というか思惑は,随所に現れているように感ぜられる。たとえば大学の就職支援の部署の総意(係員や,その部署の長の話などに現れる)であり,就職支援を標榜する各種ウェブサイトに掲示されている文章等であり,就活生に近しい人物たちの発言においてである。押し付けがましいというのが,就活生である私の所見である。

 だいいち,人によって熱意に差があり,それに伴う行動の熱量にも差が生じるのは当然である。人は人によって己が持つエネルギー量に違いがあるからである。念のために言うが太っているとかそういう話ではない。ここで言いたいのは気力のことである。

 人によって熱量が異なるのであり,熱心に活動できる人もいれば,一所懸命に集中して行動する人もいる。再び念を押すが,その熱量の差が善であるとか悪であるとか,そういった低次元の話をしているつもりは毛頭ない。もしここまでの文章を読んで,「ああこいつは熱量がないのを悪いと言ってるんだな」などといきり立った人は,いますぐブラウザを閉じることをお勧めする。頭を冷やしてほしいのだ。俯瞰が必要だ。……そう,熱量が人によって異なるのは当然であるところ,全員が気力十分,就職活動にのぞんでいるはずもないのである。ここで,お前自身の言い訳だろうと言われたところで別に否定はすまい。

 実際周りを見渡してみれば,就活生各人には温度差が激しく存している。知人らの言を引用すれば,国立大に通う者は「おれは『大企業病』なのかもな」などと言い,国立大というステータスをもってして大企業への選考に進み,果ては安定した地位や収入を得たいと望む。また,同じ大学に通う者でも「別に,やめたら意味なくない?」と言い,大企業は一応狙っていようとも,本当に自分が数年後,十年後,十五年後……と,ずっと働き続けていられるかどうかを基準にして,本当に自分にあった職探しを試みている。

 インターンシップにしてもそうである。ある者は「会社自慢に終始するなら行く必要性は感じない」と言い,またある者は「何がしたいか不明な自分の状況からして,行った方が何かきっかけを得られるかもしれない」と期待を寄せるのである。

 このように,人によって熱量が違うのは当然である。熱量が違うということは,就活生を取り巻く常況も異なるということに他ならない。なれば,全体へのメッセージや思惑として統一した意見を押し付けるのは不相当であることが,ご理解いただけよう。

 さて,就活生個人個人によって状況が異なるとわかったところで,彼らが求められる行動とは何であるか。それは,演技である。ロールプレイと言い換えても差し支えなかろう。社会によって気炎万丈な就活生と想定されているからこそ,彼らはそうふるまわざるを得ないのである。ありのままの自分を見てほしい! ということで寝間着を企業に晒すのは問題外であるが,就活で聞かれるのは「夢は?」「希望は?」「十年後のあなたの姿は?」といった抽象性の高い質問ばかりである。仮にこれらの質問が,未知なる問題に対する対応力を測るものであるのだとすれば,面接官は極悪非道,まさに悪魔と言わざるを得ない。なぜならば,面接官がその質問の文言の意味するところをしっかり理解して使っているか,怪しいからである。

 自分の手のうちを見せないで答えを得ようとするのは,さながら万引きである。思考の万引きであり,人間性の略奪である。もちろん,合理的な質問は喜んで答える。志望動機は? 何がしたい? これからこの会社でどのようにしていきたい? といったことである。これは会社に入る意思を確かめるもので,納得できる。だが,夢や希望などを語ったところで,それが何になる? 就活生にした質問をそっくりそのまま面接官に逆質問したとき,面接官は果たして答えられるだろうか? 全員が等しくこたえられるならば就活生冥利に尽きるが,そんなことはありえない。就活生の中には厭世感に満ち満ちた人も多いはずである。であるのに,上のような面倒くさい質問を繰り返す輩は,残念ながら確かに存在している。このような質問を受けたとき,わたしは何か人間存在を犯されているかのような心持になる。

 しかし,このような本心を,応募書類に描いたり,採用面接の場でつらつらと語ってみせることなどとうていできない。自分自身の威信が傷つくような気もする。

 そこで就活生には何ができるか。どんな対抗策があるか。根本的には,何もない。ただ目をキラキラさせて,一所懸命採用の現場に身を投じるしかないのである。しかも,それを受けたい会社の数だけ。内容をその会社ごとに変えて,自分自身という商品を魅力的に,高く売ろうとするう。資本主義の奴隷になった気分である。

 この点では,高貴なる熱意溢れんばかりの就活生のみなさまにとっても例外はない。一律にすべての企業に同じ文言で同じ志望動機を語るとすればこの上ない阿呆である。阿呆ではないからこそ,企業によって手を変え品を変え,のぞむのである。だが,高貴なる熱意溢れんばかりの就活生のみなさまにとってさえ,何十社と受験していれば,志望動機の在庫など底をつくであろう。動機というのはそうやすやすと生じるものではないからである。本音のレベルであれば,「ネットでちょっと調べてよさそうだと思ったから」「給料がよさそうだから」「福利厚生がしっかりしているから」などといったことが,彼らの志望動機の中核を担う。企業側に言わせてみれば,あるいは「それでも志望動機としてちゃんと仕上げて,アピールできるんだからやはり優秀に違いない」となるのかもしれないが,それはそれで問題だ。何のために,何をするために就活生が採用の場に現れたのか,本質を見抜けていないだろう。

 いずれにせよ,本音で語ることができない以上,演技するしかない。できることは,本音を隠し心を殺して,魅力の香りがぷんぷんする商品になり切る。じつに演技性の高い行為なのだ。

 次の観点に話を移そう。

 ピア・プレッシャー同調圧力である。これについては特に深く言うまい。口語にすれば「同調圧力が辛い(´・ω・`)」ということである。同調圧力といってもそのあらわれ方にはいろんなものが想定できるが,ここでの同調圧力とは,たとえば大学受験のように,周りが大学に行っているから大学に行く,周りが就職するから就職する,といったような現れ方を想定する。身近なものがある特定の方向に進んでいるならば,同町圧力によって我も同じ方向に進まねばならなくなる。これは就職活動の実際においても存する。

 もちろん高校の時分より大学へと,時がたつにつれそのあらわれ方はかなり穏やかになるものである(人によるが)。大学は高校より人間関係が希薄になるからである。皆それぞれが人との距離感を保ち始めた頃合いが大学時代である。特に語る必要性も感じないので,例を示すだけにしておこう。

 たとえば,周りが公務員受験生ばかりの場合,「あれ? 公務員受験じゃないの?」と頻繁に語り掛けられるとか,民間ばかりであっても「え? 大学生なら,そんなところ行かなくたっていいんじゃないの?」とかいったことである。心を強く,己の芯を確かに持つ人にとっては縁のない話であろうが,これはこれで結構傷つくものであり,不安を誘うものである。

 同調圧力が現れる大学のシーンは,何も友人関係においてのみのものではない。幾度となく触れている就職支援部署。彼らは,有益な情報をたくさん発信する。大学生,ことに就職に敏感な大学生にとっては,かけがえのない心のよりどころであり,杖であり,力である。しかし反面,彼らは大学生に対し就活の何たるかを教えんとして,ひとつの意思として,強い言葉でもって煽り,牽制する。渇を入れる,ハッパをかける,と形容するのがふさわしいだろう。これによって否が応でもやる気を出して何をか取り組まざるを得なくなるという意味では,決して悪いことではない。だが,かかる意思に従わざるを得ない立場である以上は,示された非常に地道で曖昧な道筋を,これまた曖昧で信憑性のただ一つの可能性さえない他人の意見をさも恭しいお言葉であるかのように聴き,取り入れるしかないようにも思える。

 就活生は,資本主義のもと,自分という価値を,商品を,売り出すためにそれら意見をフル活用してはまた次の就職活動へとつなげていくのである。

 同調圧力の実際は,このようなものである。

 次,社会の意識。これについても,多くは語るまい。社会は,高校生諸君のセンター試験や大学生諸君の就活に敏感であるように思える。だがそれは世代間対立をあおる材料になりうる。就職氷河期世代と言われる先輩方がほかならぬ政府の手で事実上見殺しにされた事実は許しがたい。コロナ禍によって現在の就活生も同じく就職氷河期なのではないかと言われているが,彼らが味わった不安,絶望,苦悩はまだこれよりも酷かったのではないかと想像すると,なんともまぁやるせないものである。まだ機会に恵まれているかもしれないと考えることすら傲慢であるかのように思えるところである。

 茨木のり子さんの有名な詩によれば,「駄目なことの一切を」「時代のせい」にすることは「わずかに光る尊厳の放棄」らしい(「自分の感受性くらい」より引用)が,その尊厳を捨ててまで社会のせいにしたくなるものである。機会なければ人権なし,とでも言いたげなこの社会に。

 いろいろと書いて,長くなってしまった。要するに,理想の人格を演じなければならない点,それを余儀なくさせる同町圧力と社会によって,私は就活をクソだと感じているから,クソだと断ずるのである。

 まぁ結局,悪いのは自分なのだという感覚,思いは常にある。いかに就活がクソであろうと,私はもっと前を向いて強くありたいものだ。どんなときであっても,志高く,心を強く,したたかに世の中を渡り歩いて行ける人は,必ずいるのだから。