偏光

日常のこと、いろいろ。

「捨てられないもの」

お題「捨てられないもの」

 

久しぶりの、ブログ更新。

何気なく、「お題スロット」を使ってみると、「捨てられないもの」と出た。

「捨てられないもの」。捨てられないものはあっただろうか。あまり考えたことのないテーマだ。

本。記憶。愚かしさ。思考。今まで綴ってきた日記。

パッと考えただけでもこれだけ思いつく。

厳密に考えれば本や日記は捨てられるものだし、家電なども勿論捨てられるものだ。その気になれば……。

一方で、記憶や己の愚かしさは、どのようにあがいても捨てられない。

記憶は捨てられない。経験的である。忘れることはあっても、何らかを引き金として再び思い起こすものである。自我から無意識の領域に記憶が後退することはあるようだが、それはもはや心的外傷後ストレス障害のように、尋常ではない状態であろう。だがその後退した記憶であっても、治療の過程で自我にのぼってくるものである。記憶とは、心という地中深くに打ち込まれる杭のようなものなのだろう。際限なく深く打ち込まれる。そのあたり一面に立っている杭を活用すべく引き抜こうとすることは簡単でも、だが完全に引き抜くことはできない。また、一見、そのあたりには何もないようでも、実は確かに、杭として記憶が打ち込まれているのである。

愚かしさはどうであろうか。愚かしさとは、逸脱しているということである。すべきでないと知っているのに、その通りにできないことである。あるいは、気づかずにすべきでないことをしてしまうことである。結果的に逸脱することが愚かしいのである。この愚かしさも、やはり捨てられない。人間は決して完璧ではなく、逸脱することも相当ありうることであるからである。

経験も捨てられないものだ。記憶は経験であり、経験は記憶である。思考も経験的であり、記憶に密接な関連を持つとみてよいだろう。一説によれば人間の脳というものは常に脳内において思考するようにデザインされているのだという。その思考を放棄するとなれば、これは尋常なことではない。思考を放棄するならば過去の経験や記憶をいったんは放棄するということに等しい。思考を放棄する方法は、たとえば瞑想のように、無くはない。だが決して簡単なことではないのである。’Cogito ergo sum’と言ってのけたデカルトに従えば、思考の放棄は人間性の放棄である。

ゆえに、どのようにあがいても「捨てられないもの」として、上にみたようなもろもろが、ここに含められよう。

さて、記憶といったことは決して捨てられないものだとして、本や日記といったものが「捨てられない」のはなぜか、改めて明らかにしておこう。

上でちらりと書いたように、その気になれば勿論捨てられるものばかりである。物理的に処分できるものだからである。人によって、この物は違うだろう。たとえばプラモデルであり、カメラであり、パソコンであり、砂時計であり、ネックレスであり、リングでもある。

要するに、「捨てられない」ものが何であるかは問題にならない。では、なぜ捨てられないのか。それは思い入れの強さの問題である。思い入れが強いからこそ、大好きな本や、大切にしてきた日記やその他もろもろを捨てられない。コレクターが好例である。思い入れが強くないものと、それを比較したとき、このことは良くわかる。

たとえば百円均一で買った大学ノートは間違いなく捨てられるものであろうが、なけなしの小遣いで買ったきれいな装丁のノートは捨てられないものであろう。そこに付加価値を見出しているということである。すなわち、どちらのノートであっても本質的には何の違いもないのだが、前者には百円の価値と等しく百円の価値を見出すが、後者はそうではない。勿論金銭的な違いはあるけれども、「なけなしの小遣いで買った」ぶんだけの価値が加算される。ゆえに「捨てられないもの」になるのである。

大切にしたいものはどこまでも大切にする。文字通り「捨てられないもの」として丁重に扱うということである。しかし、大切でないものについては、どこまでも大切にするというわけではない。このことは、モノに対する態度だけでなく、ヒトに対しても普遍的であろう。また、私自身にのみ妥当するのではなく、およそ他人にも普遍的であろう。だからといって何かを言うわけではないが、そういうものである、ということである。