偏光

日常のこと、いろいろ。

東日本大震災を思い返して

 東日本大震災で被害に遭われた方々に謹んでお悔やみ申し上げます。

f:id:Lumiere0450:20200310233910j:plain

内閣府、防災情報のページより引用。

 

 3月11日、大災害が東北地方を襲ったことは今でも忘れることができません。

 

 日増しに増えていく死者数、濁流に飲み込まれていく街。連日の報道、耳障りなまでに繰り返し流れるACのコマーシャル。どれをとっても、それがつい昨日のことであるかのように鮮明に思い起こされます。

 日本にとっても、また世界にとっても、東日本大震災は大きな驚きをもって受け止められました。もちろん、わたしにとっても。

 

 東南海地震発生の危険性はかねてより提言されてはいたようですが、東日本大震災を受けてその危険が目前のように迫っているのだと誰もが思い知ったのではないでしょうか。その意味では、それまでの危機意識との関連で、あの震災はひとつの分岐点であったのかもしれません。

 

 震災から10年近く経った今でさえ、完全な復興はなしえていないのだと聞きます。

 それでも風化していく意識。戦争と同じです。

 

 あの震災で被害にあわれた方にとっては、震災の脅威・影響というのは今なお現実の問題として在るでしょうが、残念ながらすべての地域においてその問題意識があるわけではありません。

 日々震災のことを思い出す生活をしているかと問われれば、そうではありません。もちろん時折思い出すことがありますが、やはり改めて当時のことを問い直すにあたっては、こうして年が巡り、ひとつ忌を重ねるごとに思い起こすのみです。

 我ながら残念なことです。

 

 当時のことを思い返してみれば、震災のショックからややあって、新聞記事や報道写真集を丹念に読み込んでいた記憶があります。その中でも印象に残った一枚の写真があって、それは、倒壊した家屋の前で泣き崩れる一人の女性の姿を写したものです。

 なんとなく、その写真をインターネットから簡単に拾ってくるのは憚られて検索さえしていませんが、その写真は今も私の脳裏をよぎります。

 

 彼女が何を思っていたのか。察するに余りある、というものです。

 悲しいかな、あまりにもむごい悲劇の前にあっては、本人の抱える悲しさを想像することしかできません。

 

 阪神淡路大震災の折、火事の中に母を残して逃げた娘に話を聞いた巡査の独白の新聞記事を以前読んだことがあります。

 その母は、懸命に「おかあさん」と呼び続ける娘の手を放し、ありがとう、もう大丈夫だから、と言ったといいます。娘はなんとか逃げ延びて避難所にいたところを巡査に声を掛けられたという経緯です。

 娘は、手に母の遺骨の入った鍋を抱えていたといいます。

 そういった経緯を泣きながら、しかしまっすぐ前を見据えながら懸命に話す娘の姿に、その巡査は、生まれてはじめて神に祈ったとか、立ち去るよりほかなかった、などと吐露していました。

 

 阪神淡路大震災での犠牲者数も相当なものですが、東日本大震災はそれ以上です。当時を語る体験談は多くありますが、たとえば上にて紹介したような小さな物語が至る所で繰り広げられていたのだと想像すると、もう言葉が出ません。

 

 こうした悲劇と、日常のさまざまな悲劇とを比べると、後者はあまりにも小さく見えます。もちろん痛みを比べることはできないわけですし、どんな悲劇に出会おうと本人にとってはそれは厳然たる事実として在るわけで、喫緊の問題ではあるのですが。

 

 しかしそれにしても、突然平穏な日常が破壊されて命さえ奪われてしまうような悲劇は、想像できる範疇を超えているようにも思われるのです。

 波間に飲み込まれていった方々の苦しさ、恐怖、絶望は、それこそ海で死に直面したことのある人にしかわからないかもしれません。

 

 できることは、ただ彼らの冥福を祈るのみです。そして、彼らの死を踏み越えて生きる私、私たちにできることは、決してこの経験を無為にしないことです。

 

 改めて、東日本大震災において被害に遭われた方々に謹んで哀悼の意を表します

 安らかで静かな幸福が訪れることを願ってやみません。