偏光

日常のこと、いろいろ。

日記を続けるには;その方法と実践

この記事は、過去に公開した全4回の「日記を続けるには;その方法と実践」の合併版であり、ある程度整形したものです。ご覧くださいませ。

 

 

1.日記を書くこと

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 日記を書くとき、どうしようもなく高いハードルを感じてしまう人は、意外に多いのではないでしょうか。「効果があるからやるべき」、「記録として便利」とはよく言われることですが、ひょっとすると「デキる人はみんなやっている」とも勧められるかもしれません。これは実際その通りで、書店に行けば、日記に関する本はたいてい5冊ほどはあるものです。書店でなくとも、ラジオやインターネット、テレビにおいても、日記の効用について紹介され、論じられていることと思います。日記のススメ、とでも言いましょうか。
 さて、この日記、効果については、まとまった定説めいたものがありまして、

www.lifehacker.jp

studyhacker.net

などなど、この手の記事は非常に多くあります。これらを一たび読めば、日記はやらなければならないのか、と思ってしまうほどでありましょう。
 これらは大概共通している点がありまして、
  ①日記に取り組んだほうがいい
  ②日記は気持ちの整理をつけるうえで重要*1
  ③創造性を養える
  ④文章が上手になる
といったことです。そして、日記の媒体については、
 ①紙(ノート、手帳、メモ用紙等)、
 ②電子(Evernoteといった電子ノート、携帯電話等のメモ帳、日記アプリ等)、
の2通りが挙げられますが、共通して、どちらでもよいとされています。
 日記の効果については、種々意見のありうるところですし、それはそれで構わないので、ここでは問題としません。

2.日記を続けるためには

1.はじめに


 ここでテーマとしたいのは、日記を続けるうえで、どうしたらいいのか、ということです。日記を続けているには続けているのだけれども、いまいち継続できない、飽きっぽいから続かない、といった方を対象として*2、この解決方法を模索していきたいと思います。 

2.私自身の取組み


 さて、記事タイトルにある通り、大きく出たものですが、かくいう私は、9年ほど日記に取り組んでいます。東日本大震災のあった3月11日からややあって、2011年3月16日から、現在に至るまで日記を書き続けています*3。書き溜めたノートたちを見るにつけ、よくもまぁ続けてきたものだ、と感慨に浸ることもあります。
 この9年間、飽きっぽい私は、同じやり方をずっと続けてきたというわけでは決してありません。むしろその逆、常に何か、新しいやり方はないのか、続けるためにはどうすればよいのか、考え、試してみて、挫折する、といったことを際限なく繰り返してきました。その中で、一定程度、私自身のやり方、みたいなものが定着しました。それをここで共有していきたいと思います。

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3.私自身の取り組み(2)


 私は、日記をつけるにあたり、最初から、一定のルールを設けていました。それは、①同じノートに書き続けること(文字でノートが埋まったら、次のノートへ移るということ。)。②なるべく毎日、書き続けること。この2つのルールです。これらを貫いたまま、9年間、ずっと書き続けられたなら、苦労することはなかったでしょう。やはり、事情があったり、日記をつけるという気分になれなかったりするときには、続けられないことがあるものなのです。
 日記を続けられない原因は、たいてい、
  ①マンネリ化、
  ②忙しい、あるいは心の余裕がない、
  ③日記をつける意味を見失う、
ことにあります。
 私はこれまで、この3つの原因に対処するうえで、たとえば、
  Ⅰ筆記具を刷新する、
  Ⅱ無理に毎日記録しようと思わないようにする、
  Ⅲ日記をつける意味を何度も問い直す、
ということを行ってきました。この通りにすれば日記を続けることが問題とならないのか、と問われると、それは間違いです。なぜならば、これは私個人の経験則に過ぎず、一般的普遍的に、他人に適用できる類のものではないからです。しかし、右原因・方法の検討は、決して無駄ではなかったものと信じています。この検討を通じて、今の在り方が確立され、今、こうして不特定多数の誰かに自信をもって共有できる機会を、手にすることができたからです。
 以下では、①から③、ⅠからⅢの、原因・方法について、詳しく述べていきたいと思います。

1.気分を変えること


 私が、日記を続けられない時(または到底続けられないような心理状態に陥った時をいいます。以下、便宜上、「スランプ」と呼びます。)に、最初に取組んだことは、なるべく気分を変えるということでした。
 スランプ時にあっては、いろいろな疑念、たとえば、「いつまでこんなことをやっているのだろう」、とか、「何のためにこのことをやっているのだろう」、とか、「これを続けて、結局何になるというのだろう」、とかいった疑問が、湧いてくるものです。いずれも、目的や得られる利益のことを天秤に掛けているわけでして、汚い言い方でもって換えれば、結局のところ、日記を続けることについては、得られる利益との関連での、損得勘定でしかないわけです*4
 先が見えない、先が見えない作業に取り組んでいると分かっている。一定の成果は残せたにせよ、未達成の部分があまりにも大きく、永遠にも等しい時間、ひたすら日々の記録をしなければならない、もううんざりだ……。デメリットに着目すれば、マンネリ化が起こる原因といいますか、マンネリ化に至る過程というものは、右のように説明を試みることができます。
 単純な作業、単調な繰り返し。もしも刺激的でない日々を送っているのだとしたら(刺激的過ぎても、それはそれで書く気力が失せるやもしれませんが。)、その作業がいくら大いなる意義を持つものであるのだとしても、マンネリ化したとあれば、かかる意義を徐々に見いだせなくなってゆくのは、想像に難くありません。
 利益がだんだん見えなくなってきた、わからなくなってきた。だからやっている意味がないのではないか、なぜ続けているのだろうか、と疑念をもつこととなるわけですね。
 あることを長期的に続けていて、かつ、それを続けることがマンネリ化しているとき(「飽きているとき」、と言い換えても良いでしょう。)に、以前と同じことをしていても、依然としてマンネリ化した状態は改善されないわけでして、その意味で、気分を変えることというのは、重要になるわけであります。たとえば、いつも犬の散歩に行くとき、河原を歩くルートを選ぶ。でも、何年も、毎日同じルートを歩いていたとしたら、(心底その景色が気に入っているというのであれば、それは別として、)やがて飽きてくることは必至ですね。日記とて例外ではありません。
 いつも同じ書き方、いつも同じ筆記具、いつも同じ時間……。いつも何々をする、とひとたび決めてしまうと、何々をしなければならない、と思い至ってしまうものです。日記が続かない原因のうち一つは、ここにあります*5。すなわち、ルールによって、自分自身を縛りすぎてしまう、ということです。ダイエット然り、筋力トレーニング等の肉体改造然り、です。
 日記に関して言えば、日記を書き続けている方なら分かることと思いますが、同じノートに延々と文字を書き連ねること、毎度ほぼ同じ筆記具にて、日々の生活を記録し続けること。このようなことに、飽きを感じるわけです。
 初日から相当期間までは、新しいことをする喜び、それに伴う目標、さらにそれを達成する喜び――要は、達成感や開放感によって、満足感が得られたなら、意外といろんなことにチャレンジすることは可能なのです。ですが、どうしても飽きが来てしまう。そのようなときには、言わずもがな、心機一転目標を改めるとか、目的を再確認し、自己暗示によって再出発しようと奮起するとかいったことが必要となってきますね。
 そうすると、日記を書く上で、気分を変えるために起こすべき行動は、過去に続けてきた因習めいたマイ・ルールを打ち破ることだ、といえるでしょう。
 Ⅰにも示しましたが、筆記具を変えるということが、私が試した方法の一つでありました。はじめは、私は鉛筆だけで日記を生涯書き続けるのだ! と意気込み、実際にもそれで数年間通しましたが、飽きには逆らえませんでした。ボールペンを使ったのです。赤ペンを導入することもありました(特に重要なポイントだと思ったところなどに使いました。)。そうすると、不思議なことに、文房具たちに愛着がわいてきて、また使おう、もっと使おう、と思い、日記をつけることに繋がるわけでして、これはかなり多く経験しました。この方法は、正解だったのだろう、と推察します。
 筆記具を変えるということであれば、おしゃれな万年筆を使ってみるとか、水の表面をなでるようにサラサラ書けるボールペンを追求するとか、発色のよい鉛筆でもって文字を綴るとかいったこともできますね。いずれにせよ、気分を変えるうえでは、いずれの筆記具も非常に有用であることには、疑いはありません
 他には、お気に入りのノートを選定する、ということです。たとえばパラパラ漫画の描かれたノートがあれば、毎日毎日、頁をめくるのが楽しみになって仕方ないでしょう。日めくりカレンダーのように、その日ごとに名言名句の類や、花言葉といったものが印字されていたり、図版でもって多種多様な工夫が施されているようなノートがあれば、そういったものを使うのもよいでしょう。前者と同様に、単調な日々の記録を、楽しみに昇華させることができます。
 何も筆記具だけを変える必要はありません。他には、常体(「~だ」「~である」を使う文体である、という説明が一般的であります。)を敬体(「~です」「~ます」を使う文体です。)に変えるといったことも、試みとして考えられますし*6常体を、もっと砕けた口語・常体の混交文に変えるということも、十分有用であるように思います*7
 記法を変えるという意味では、たとえば、日付ごとにタイトルを考えて、つけてみるとか、ところどころ英語で記述し、おしゃれさを追求するとか、全部を英語で記述し、英語の鍛錬に励むとか(まぁ、こちらは少々アクロバティックではありますが)いったことももちろん、有用なもののうちに、含められるものと考えます。
 以上のような方法を用いることで、少なくとも、日記という活動を制限しうるマンネリ化という問題に、一石を投じることができるでしょう。この方法が万能でないことは認めましょう。しかし、マンネリ化の問題を解決するには、筆記具や文体、記法を変革せしめることが、何よりも肝要であることと思います。

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2.心に優しくすること


 日記を続けられない原因として、以前3つの点を指摘しました。すなわち、①マンネリ化、②忙しい、あるいは心の余裕がない、③日記を続ける意義を見失う、ということです。この節では特に、②について述べていきます。
 さて、「忙しい、あるいは心の余裕がない」ということはどういうことであるか。これはもはや語るまでもないでしょう。読んで字のごとくと言えますが、一応解説しておきます。
 日々の仕事の中で、あるいは学業等に追われる日々の中で、誰しも毎日一定の作業を続けることができるわけではありません。
 よほど勤勉で、何かひとつの事をこつこつと取り組むことが好きな方であれば、日記を続けることなど、何の問題にもならないかもしれません。しかし、そうはいっても、人間である以上、疲れて何もやる気が起きないなどということが起こることは、容易に想像できるところであります。夜遅くまで何事か用事があって外に出ていた、目の前が霞んで見えるほどにつかれている、もう泣きたいほどにつかれている、と。そのようなときに、いくら勤勉だから、日課だから、といっても、どうにもやる気が出ないものです。
 それを押し切って、毎日続けることができるというのであれば、それにはもう敬服いたします。このような記事を読むべきではありません。なぜならば、そのような方は、すでに続ける力を持っている方なのですから。ここでは、残念ながらそういった方を対象としているわけではありません。
 たとえば、このような状況があるとします。続けたい気持ちはやまやまなのだけれど、忙しく、なかなか手を付けられない。あるいはなかなかやる気が出ない。先ほどの例を用いれば、毎日毎日、日記をすると決めていて、ある程度は続いたのだけれども、どうにも続けること自体が目的になってきてしまって、ノートを広げるのが億劫になってしまった。このような状況にある方を対象としたいと思います。
 ここで、忙しくて余裕がない方については、物理的に余裕がないということになるでしょうが、きっとそれだけではありません。心の問題が何よりも大きな観点であると思います。このことを踏まえたうえで、以下、考えていきましょう。
 さて、右状況はなぜ起こるのか。これは、自分自身にルールを強く定めすぎであるがゆえに起こっているものと私は考えます。すなわち、日記を続けると決めた以上、ぜったいにやらないければならない。でも、疲れてどうしようもなく、早く休みたい。なのに、日記だけはやらなくてはいけない。でも、どうしようもない……といったように、心の中が堂々巡りをしている状態が、右状況に当るのですが、この原因は、そもそも「毎日日記を続けなければならない」というルール(ルールでなくとも、そう思っていること。)が、制約として強すぎるものであることに因る、ということです。
 ここでは、手段と目的が転倒していて、まったく心の余裕が失われているといえます。すなわち、日記を続けることという手段と、日記を続けることによって、記憶の整理をしたり、気持ちの整理をしたり、単に記録として、いつまでも大切な宝物にするという目的。この手段と目的が入れ替わっていますね。当初は右目的のために意気込んで日記を書き始めたのに、いつのまにやら日記を書けさえすればもうあとはどうでもいい、と自棄的ですらあります。誰からどう見ても、心の余裕が失われているといえますし、このような状況に陥ったならば誰しも、心の余裕を失うことでしょう。私も実際右状況に陥ったことがあるので、よくわかるところであります。
 考えてみてください。日記を毎日続けなければならないというルールは、いったい誰が定めたものでしょうか日記は継続的に記録し続けなければならないというルールは、誰が定めたのでしょうか。さらに言えば、日記を書かなければならないという意識は、どこから来るのでしょうか
 日記を絶対継続的につけなければ怒られるというわけではありません。政治家でもない限り、日記を書かなかったからと言って、誰かに怒られるということは一切ありません。日記は「日記」として意識し、書く必要が、いったいどこにあるのでしょうか。どこにもないということが、お分かりいただけると思います。
 日記は、毎日継続的に書くものでなくとも構いません。無理に続ける必要は、どこにもないのです。「日記を続けるには」どうすればよいのかということをテーマにしておきながら、「無理に続ける必要は、どこにもない」と述べることは、一見矛盾した結論のようにも見えるのでしょうが、そんなことは一切ありません。矛盾してなどおらず、むしろ筋が通っていると思っています。
 日記を、疲れているのに無理やり付けて、続けること自体が目的になっているようでは、本末転倒です。そうではなくて、日記は、無理なく続ける。思い出したときに書く。覚えておきたいこと、忘れておきたいこと。どちらでも構いませんが、何か目的をもって、今日付けておきたいと思ったときに付ける。それでよいのです。
 先ほど述べましたが、日記を続けなければならないというルールなどどこにもないのです。なぜ、「日記は、続けなければならない」と思ってしまうのか、その起源については知る由もありませんが、大方自己啓発本の類が発端でしょう。あるいは、政治家の「日記」像からして、庶民も日記をつけるときにはこうあるべきだ、というような主張がまかり通ったのか。いずれにせよ、それは他律的な定めでしかありません。わかりやすい言い方をすれば、それは他人の理想を押し付けられているに過ぎないのです。
 しんどいとき、どうしても何もする気が起きないとき。でも、日記はどうしても書いておきたいとき。そういうときは、書かなくても構いません。勤勉で実直で、規則を何よりも重んじるような正直な方であれば、「一度決めた自分のルールを破るなんて」と、罪悪感さえ感じなさるでしょう。でも、その必要はありません。
 たとえば何か犯罪をして、一念発起、更生すると誓ったのに、自己都合で正当化してその誓いを破ることは、最大限の非難に値します。あるいは、友人との大事な約束や、恋人との記念日のディナー。これらを無断で踏み倒すことは、やはり道義的に最大限の非難でもって受け入れられるべきでしょう。でも、ここで問題としているのは、日記なのです。犯罪ではありません。ましてや金の貸借や、大事なディナーの約束でもありません。破っても良いルール、変えてもよいルール。それが日記を続けるうえでの、マイルールなのです。
 続けると決めた以上は、続けるほうがよろしいでしょう。ただ、毎日毎日書く必要はどこにもない、と私は申し上げたいと思います。
 ただ、注意していただきたいのは、日記を続けるというルールさえ破ってしまっては、それこそ本当に元も子もない、ということです。これは大前提のルールです。続けると決めた以上は、続けなければならないのです。私は間隔の話をしているのであって、日記を止めるか続けるのかについて考えるべくこの記事を書いているのではありません。日記を続けなくても良いと解釈して正当化するのは愚行にすぎません。一応、老婆心から釘を刺しておきます。
 大前提さえ守っていれば、あとは間隔を随意に変えても構いません。私は、この9年間、日記を書く上で、何度も挫折しそうになりました。それこそ、日記の表紙を見ることさえ嫌だ、と言う気持ちになったことは何度もありました。そして、大前提――日記を続けること――じたいを辞めてしまおうか、と真剣に悩んだこともありました。それでも、続けてこられたのは、ひとえに大前提さえ崩さなければどうにでもなると学んだからです。
 どうしても辛いときに、無理に書き記す必要はありません。思い出すほど辛いことも、きっと誰にでもあることでしょう。そんな記憶の、傷口を、わざわざ舐めるように思い出して克明に書き記していくというのは、想像しただけでも身震いします。あまりにも涙ぐましいことですね。そのような努力をする必要はありません。書きたくなければ、書かなければいい。ずっと書かなくても良いということではないけれど、ある程度放っておいても良い。このようにとらえ方を変えると、面白いくらい日記が続くようになりました。
 どうしても辛いときは、その辛いことを、整理して、気持ちを落ち着けて、換言すれば冷静になって、見つめ、思い出し、書けるようになる時まで書かないでおく。その間に、ちょっとした良いことや、嬉しかったこと、楽しかったこと。こういったことを少しずつ書いておくようにします。そうすると、日記を続けることは、きっと苦しみにまみれたものではなくなるでしょう。
 要は私が言いたいのは、自分の心に優しくしてあげてください、ということです。苦しんで苦しんで、嫌な出来事を思い出して書き記した10ページの文章よりも、些細な幸せを、嬉しさを、楽しさを、かみしめて、その記憶を思い出しながら書いた数行のほうが、何倍にもまして記憶に残るものになるのです。宝物にさえなるでしょう。
 そのような体験を積み重ねて、自分自身の過去を見据え、徐々に徐々に折り合いをつければ、きっと、書くのが嫌だと思った直接的な原因――あの日の出来事を無理やり書いてからというものの、書くのがすっかり辛くなったといったこと――も、おのずと解消されることでしょう。

 

3.意義を問うこと


 3つ目の問題点について確認しておきましょう。これは、日記を続けることの意義を見失ったパターンです。はっきり言って、日記を続けることのどこに意味があるのだろう? と疑問に思っている状態ですね。
 これがなかなか厄介なもので、書いている途中、続けている途中に、何度も首をもたげてくる問題点でもあります。
 なぜ日記を書いているのか。なんのために日記を書くのか、わからなくなる。そして、「なんでこんなにも手間をかけて文章を書く必要があるのだろう」、と疑問にさえ感じるわけです。
 これについての解決策は、一つだけ。それは、日記を何のために、あるいは何ゆえにつけはじめたのか、今一度問い直すこと。たとえ、当面の間書くのをやめてしまうことになったとしても、です。
 一つ目の解決策については、疑問の余地はないでしょう。何のために日記を書こうと思ったか、なぜ今の今まで続けてきたのか、このことを問い直し、端的に言ってやる気をだす、ということです。「私はこのような理由で日記を続けようと思って書き始めたんだ、だから今ここでやめるわけにはいかない」、と奮起すれば、また日記を書き続けるエネルギーが得られますね。
 では、直ちに奮起できないようなときには、どうすればよいのでしょうか。それは、一定程度の期間、書かなければよいのです。意外に思うことかもしれませんが、一度やめてみて、そこから日記を書くことの意味を、日記を書いている自分にとっての日記の意義を、見出すことで奮起できうるのです。
 例えば一度、今まで日記を書いてきた自分を否定してみる。「もうやめておこう」、と思い、「ここまで日記を書いてきたけれど、やっぱり意味なんてなかった」と否定してみるとします。そこで「そもそもなぜ書いていたのだろう」「何のために続けてきたのだろう」と問います。このとき「もうやめよう」という気持ちが固く覆らないのであれば、もう完全に日記を書く意味は失っていると見てよいでしょう。
 でも、上のように問うたとき、一定の名残惜しさや、日記を手放すことの苦しさといったものが、自分自身の心の中に残っているのであれば、まだまだ続ける余地はあります。仮にやめるという決断をしたとしても、それでもまだ書きたい気持ちがあるということですから。
 このときには、しばらく日記を書くことをやめてみて、書く元気を充電すればよいのです。
 つまり、日記をなぜ書くのかわからなくなり、もはや続ける意味さえ見いだせなくなったとしても、なぜ書くのか、あるいはなぜ続けてきたのかを問い続け、なお「書かなくてはならない」という答えが、確信が得られるのであれば、日記を続けていくだけの力は復活させられたということになる――この問題点を乗り越えたということになるでしょう。
 実行は容易ではありません。私の場合、上のことを問い直すのに、2、3か月はかかりました。そして、それも一度きりのことではありませんでした。人によっては勿論2、3日であっても必要十分かもしれませんが、いずれにせよ苦しいことであることは間違いないでしょう。それでもなお、「書かなくてはならない」という答えにたどり着いたからこそ、こうして続けていられます。
 ひょっとすると、「日記を書く」ということに飽きるからこそ、嫌気がさすのかもしれません。仮に普段SNSをやっている方で、日記も書いているということであれば、時間的制約もあるでしょうし、同じことを何度も書くのは面倒だ、という心境にも至るかもしれませんね。日記という存在に飽きてしまったというのであれば、一度思い切ってやめてみることも選択肢の一つです。それでもなお「書かなくてはならない」と思うのであれば、書くべきです。書くことの意義が、意味が、まだ自分の中に残っているということですから。人によってこの、書くことの意義というものば違って当然ですし、それについての答えもまた異なるものとなるでしょう。ぜひ、この3つ目の問題点に直面したときには、この問いを行っていただきたいと思います。

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3.まとめ


 以上、「日記を続けるには;その方法と実践」を書いてきました。

 日記を続けるにあたっては、なによりも強い意思が求められます。書くことの意義を見失いそうになったときに、創意工夫してどこまでモチベーションを高めていくのか、ということが肝要となってきます。このような記事を書いている手前、まるで私はいつでも完璧に日記を書き続けてこれたかのように読まれる方もおられるかもしれませんが、決してそんなことはありません。挫折して、中断して、やり方、続け方について迷走した結果、なんとか今まで続けてこれたのです。
 いつまで続けるかもわからないし、このような記事を書いたことで満足して日記をやめてしまうかもしれない、そのような虞だってあるわけですから、慢心などできません。読者の方と立ち位置は同じなのです。
 今後も、日記とともにより穏やかな日々を送れることを、願ってやみません。

*1:マインドフルネス、というおしゃれな単語を用いて説明されることもままあります。

*2:日記をまだはじめていない、日記というものがなんなのかよくわからないといった方は、インターネット等で検索していただいて、日記の効用、日記に書く内容、といったことをご理解いただければと思います。ああいう方法論というのはそれこそ跳梁跋扈しておりますが、おおむねどれも正解です。ただし、個人によってやり方が違ってくるので、その点もご了承ください。

*3:追悼のつもりで書き始めたことがきっかけでした。日々増えていく犠牲者数。町が津波に一瞬にして飲み込まれる惨憺たる状況。泣き叫び立ちすくむ人々。そのような実情がテレビで繰り返し、繰り返し報道されるにつれ、私も何か、できることはないのか、と模索した結果が、日記でありました。風化させまい、忘れるまい、と。あの頃のテレビや新聞といえば、何か自分にできることは何か考えよう、自粛して、少しでも被災者の方々役に立てることを、社会成員みんなで考えていこう、と、呼びかけていたように記憶しています。

*4:語弊のある言い方であったかもしれません。スランプ時において、日記を続けることそれ自体に疑問を感じているときに限って言えば、としておいたほうが良かったですね。私が言いたいのはそういうことです。

*5:この点、必要に応じて述べることがあるかもしれません。

*6:常体から敬体へと文体を変える方法は、実際に私が試したものです「不気味の谷」をここで持ち出すのは畑違いであるかもしれませんが、常体あるいは常体・口語混交文で記述し続けてきたのを、いきなり敬体で記述するというのは、あまりにも、今までの自己自身と乖離があるように思われて、ゆえに不気味さを感じ、この不気味さを捨てきれず、いわば「不気味の谷」を渡ることができず、断念しました。それでも、半年近くは、この敬体で記述したことがあった、と記憶しています。

*7:後者の混交文については、私は、今もときどき、この文体で、ありのままの心情を日記に吐露することがあります。