偏光

日常のこと、いろいろ。

飛込自殺をする心理の奥底にあるもの

 飛込自殺をすることについて、今までとは異なる考えを持つに至ったので、少し書いておきます。

 電車のホームから

 先日、図らずも電車に飛び込みそうになりました。事情はあえて伏せます。

 といっても大したことない*1のだけど。用事自体はなんとか事なきを得たけれど、その帰り道において飛び込みそうになりました。でもその時は、飛込みそうになったことなんてどうでもよくって、ただもう、取り返しのつかないことをしてしまったという想いがあるだけでした。

 焦りもあまりなくて、不思議と脱力していて、ただぼんやりとした不安*2を感じていたぼんやりしていたことを記憶しています。「どうしよう……うーん……どうしよう……」と。

 思考は停滞しているのに体は確実に動く。まるで自分が自分でないように浮ついた感じがある。真っすぐ歩いているつもりなのに、気づけばぜんぜん別の方向に向いて歩いている。たった50メートル先の、ホームへの下り階段に向かって真っすぐ進めない――このような精神状態にありました。

 そういうときって、不思議なもので、体が勝手に動くものなんですね。線路に向かって。「あ……こっち行かなきゃ……」って。このように考えているから体はそれに従うわけで、しかも正常な思考ができていないということに気づけていないくらいの状況にあるから、身に危険が迫っていても気づけない、認識できない。今となってはこのように理解できます。

 「呼ばれる」ってこのことかと思いました。まぁ、オカルト的な話を展開したいのではないのですが、それにしても不思議な経験でした。

どうして自殺を選ぶのだろう?

 落ち着いてから、なぜ飛び込み自殺をするのだろうと考えていました。

 飛込自殺をする人にとっては、飛び込むことがハイリスクであることは当然知りうるところです。自死を志す人においてでなくとも、このことは当然社会に認知されています。でも、それでも飛込む。いったいそれは何ゆえになのだろう、と。自死を選ぶ以上は、当然死に至ることを希求してこそ為すわけです。それでもなぜ飛び込むのだろう。

 そもそも自殺をする理由とは、心理的視野狭窄、②自殺念慮の動揺、③焦燥感に求められると理解されているようです*3し、これは私も賛成するところです。ただ、デュルケームの論理については少し特殊なので、ここでは省いておきます。また書きます。

 一応簡単に説明しますと、①は心理的視野狭窄、すなわち、心理的に視野が狭い状態に陥り、ゆえに死を選ぶことをいいます。「そうするよりほかにないと思った」「死ぬことしか考えられなかった」などというときの心理状態がこれに収められます。

 ②については、自殺念慮の動揺、これは死にたいという欲求がふいに死へと結びつくことをいいます。自殺念慮というのは「死にたい」という気持ちを言うものです。振り子のようなものをイメージしていただければ理解できるでしょうが、振り子が通常の軌道より一方向に著しく大きく逸れた、この状態を動揺というわけです。一方向、と言いましたが、これは死への方向です。逆方向にはもちろん、生の方向があります。

 生の方向と死の方向。振り子の軌道、その両端には、そうしたいという希望があり、互いにバランスを取り、わたしたちは生きています。生の方向は生への希求を意味し、死の方向とは死の渇望を意味します。死にたい気持ちと生きたい気持ち、この両者でバランスを保っているのが私たちということです。

 ところがこのバランスが、何に因ってか大きく崩れることがあり、これが動揺です。なんとか生きていた状態がもう死ぬことしか考えられなくなるといった心理状態に陥ること、これが②の内実です。

 ③については、焦燥感とありますが不安感と読替えたほうがわかりやすいでしょう。「ぼんやりとした不安」にも通ずるものがあります。

 これが死ぬことの理由と理解されているのだけど、これがそのまま飛込自殺に当てはまるかと言うとそうではないと思えるところです。というのも、死ぬことの理由については説明できても電車を選ぶことの理由までもを説明できることにはならないからです。

なぜ電車自殺なのだろう?

 では電車を選ぶことの理由は何だろう。電車に飛び込むことの理由は何だろう。

 これは、「電車がそこに在るから」が答えだと私は睨んでいます。電車というものの性質上、いつでも死ねる状況にあることが原因であるものと考えます。飛び込めばいつでも死に至るということを期待できる。自殺念慮を抱く者は、「ここから線路に向かって飛べば、死ねる」と直感する。轟々たる電車の接近音を前に、このように思うわけですね。
 初めて電車を前にする子どもであれば、ただ電車に近づきすぎると危ない、と直感するにすぎない。けれども大人である私達は、気を付けさえすれば、電車に近づいたとて必ずしも危ないものでないことを知っている。そればかりか、入構しつつある電車の足元へと飛び込めばどうなるか、即ち身体が引き裂かれ即時に死に至ることができるということを、経験則上知っているのです。
 あまり電車を利用されない方でも、この事は明らかに分かることです。通勤電車を利用する方であれば尚の事。かかる事実、つまり死が眼前にあるという厳然たる現実に日々直面していればこそ、「電車に飛び込めば死ねる」という認識を強めることになるでしょう。それゆえにこそ、ふとした瞬間に自殺の要件を充たすと、衝動性をもって自殺へと向かうことになるのです。すなわち、心理的な視野が狭い状況にあり(生きる意味を、希望を、見いだせない情況にあり)、漠然と抱えていた「死にたい」という感情を、己が内心で爆発させると(動揺させると)、もはや飛びこまざるを得ないと性急に結論づけることになるということです。
 確かに「電車がそこに在るから」飛び込まないまでも自傷によって死に至るとか、あるいは自傷に依らないでもその他の方法に依るとか、できるんじゃないの? なんで電車に飛び込むの? という疑問は当然有り得ます。電車によらないでも、腕を切ったり割腹したり、ビルから飛び降りたりすることは勿論可能です。しかもその気になればいつでも出来る。単に電車がそこにあるから電車を選ぶだけで、電車をわざわざ選ぶ必要なんて、およそない。
 しかしながら、上の立場がある一方で、わざと電車を選ぶ立場というのもまた、有り得ることなのです。上で「およそ」としているのはそのためです。では、電車をわざわざ選ぶ場合とは、いかなるときか。何ゆえに、電車をわざと選ぶか。
 これについて考えるうえでは、「承認欲求」が鍵となるでしょう。

承認欲求、「寂しさ」;電車自殺をする心理の奥底

 「承認欲求」とは、他者に自分自身のことを認めてもらいたいという気持ちをいいます。承認されたい欲求、読んで字のごとくですね。この承認欲求というのは、寂しさと密接に関連するものです。承認欲求が満たされないときには、寂しさを感じることになるということです。この承認欲求はSNSにおいて盛んに使われている言葉ですし、SNSが承認欲求の満足を求めるような場でありますし、ご存知の方も多いでしょう。

 「いいね」「お気に入り」欲しさに、公衆の面前において自己の身体を他者に触れさせた少女の事例や、社会問題として広く認知されているところの、学生等若年者による事業所等における違法行為を学生等若年者が喧伝し又は喧伝される、いわゆる「バイトテロ」「バカッター」と呼ばれる事例は、いかにこの「承認欲求」というものが人をして正常な判断能力を失わせるような力――強力な魔力を持つのかがお分かりになるでしょう。

 この承認欲求は飛込自殺においても例外ではないと考えます。なぜなら、わざわざ電車を選び、そして実際に飛び込むという行動を為すにあたっては、あえてそうすることに見合う対価が本人の中に存在しなければならないところ、何よりも人目につく電車を選ぶということは、承認を得たいがために実行に着手したとみることができるからです。

 では希死念慮を抱く者が自殺にさいして満たすことのできる承認欲求とは何でしょうか。換言すれば、電車による自死を選ぶことによって承認欲求を満たすことは何の得になるのか――何の利点があるのか。この点が問題となります。

 これは、誰かに気づいてもらえるという意味において、承認欲求を満たすことができるのだと考えます。そしてそれは、自己存在を認めてくれない、という、ある種の「寂しさ」の穴埋をすることができる利点があるということにほかなりません。つまり、ある種の「寂しさ」が高じているうえこの「寂しさ」――寂寥感を払底することができないがゆえに、存在それ自体を承認してもらえるという仕方において、電車による自殺を選んでいるのだ、ということです。

 「寂しさ」というのは、他者や社会からの承認が薄らいでいる状態をいうものとご理解ください。

 この意味において満たされる承認欲求は、かかる寂寥感を多少なりとも解消することができるであろうと期待することと等価です。そうであるとすると、電車による自死を断行することは、承認欲求の充足という利点があるといえる。ある種の合理性がここに認められるわけです。

 何を言っているのかと言いますと、たとえばとある重大な事業に失敗して、さんざん罵倒され、その罵倒は口汚いものであり、聞くに堪えないものでもあり、もはや人格非難の域にまで達するものであったとしましょう。そして、それによって、相当程度の心的外傷を負ったとしましょう。このとき、「私は事業にとって不必要な人間なのだ。事業に必要とされていないということは、事業を必要とする社会にとって不必要なのだ。だったらもはや生きている価値もない。だのに、なぜ生きているのだろう……」と考えるであろうことは、一度は死を試み又は死を深く問うたことのある方であれば容易に想像できるところでありましょう。

 このとき、彼は自分の存在価値を見失っています。カタカナを用いますと、アイデンティティを喪失しつつある状態にあるということです。

 社会的繋がりによってこそ人間が自立できている、存在できているという前提に立つとすると、社会とのつながりを失いつつあるとも見ることができます。そして、社会とのつながりとは要するに他者からの承認ですから、この承認を得られなくなりつつある(少なくとも本人は得られていると自認できなくなっている状態にある)といえるのです。よほど恒常的に厭世的な人間でもない限り、承認を受けられなくなったら一抹の寂しさを受けるのは当然でして、ゆえにこの寂しさを解消するためあるいは認められなくなりつつある承認を回復するために、他者からの承認を求めるのも自然なことですから、この場合彼は他者からの承認を暗黙的に欲している状態にあるともいえるでしょう。

 このように考えると、暗黙的に自分の存在価値について社会による承認を欲している状態にあるという意味で「寂しさ」の解消が求められるのであり、それは寂しさの解消に寄与する承認欲求の満足が求められていることでもあるのだ、ということができます。

 上でも少し触れましたが、この寂しさの解消というのはそのまま他者からの承認を得ることに帰結するのですから、ごく自然なことであります。ここに承認欲求を満たすことの利点も求められますね。他者からの承認を得ると、「自分は不必要だ」などと考える必要はなくなり、逆に「自分は居て良いのだ」と自己肯定感を得ることにもなります。

 そもそも承認欲求は満足されており、自己肯定感の十分に得られている状態にあるならば自殺をする必要はありません。藤村少年の「巌頭之感」のように、大儀や真理の追求のために自死を選ぶこともままあることなのですが、しかし藤村少年本人が、内心に悲観の存在を認めていることをとっても分かるように、いずれにせよ自死に至る心理状態がここでいう承認欲求の満足な状態にあるものとはいえません。まぁ最も、この場合においては自己肯定感は得られるのかもしれません。

 結局、希死念慮を抱く者が電車自殺を選択する際に満たされる、あるいは満たしうる承認欲求の内実は、「寂しさ」の解消にほかなりません。「寂しさ」の解消と言うのは即ち自己存在の肯定感を得るため――自己肯定感を得、ひいては承認欲求を充足させることですから、そのままこれは利点になります。

 いろいろ書いてきましたが、端的に言って、希死念慮を抱く者においては自分が存在していて良いという確証が欲しいと思っている――「寂しさ」を埋めたい、ひいては承認欲求を満たしたいと考えている――ということであり、これを得ることが、電車自殺を採択することの利点であり理由でもある、ということになります。

 要するに承認欲求を満たす、すなわち自己存在に生じた「寂しさ」を解消したいという心理が、この電車自殺をする心理の奥底にあると考えます。

 ではなぜ「寂しさ」を抱くのだ、と問われると、これは非常に難しい問題へと変貌します。この問いは、なぜ他者から承認を受けられない場合が存するのだ、という問いであるからです。

 この問いに、私ごときの稚拙な論では答えることはできません。テーマが大きすぎるからです。哲学を極める方々にとってみればたやすいことであるのかもしれませんが、私にはとてもできません。しかし、「寂しさ」が増すような場面を例示することはできるでしょう。

 それは例えば「Twitter」が挙げられます。情報社会の進展に伴って、SNSという情報伝達・コミュニケーション媒体はまたたく間に爆発的に普及し、老若男女問わず浸透し、生活の一部となり果てました。個人にとっては相手の顔を見ずに不特定多数の人間と意見を交わすことができる。そして自己の趣味嗜好を共有するために見ず知らずの人を捜し求めるようなことができるようにもなりました。企業にとっては絶好のPRの場であり、未特定のニーズを発掘し営業利益へと転化させていく契機となっています。報道各社においてもこれは例外ではなく、不特定多数の人間に即時に情報を拡散することができる。ニュースの拡散にかなり大きな貢献をしていると言っても過言ではありません。今や報道記者までもがTwitterにおいて個人に取材を申し込むに至るほどです。

 しかしこれは一方であまたの歪みを生むことにも貢献することとなりました。「アルファツイッタラー」なる語の意が示すように、「アルファ」層――ごく一部の、フォロワー数に比例する発言力(拡散力)を有する者の意見が、拡散に拡散を重ねる中で大きくなり、あたかもその少数意見が社会全体の弁明であるかのごとく受け入れられ、さらに拡散されていく。こうして怨嗟が積み重ねられていくわけです。

 重ねられた怨嗟、あるいは不特定であることに因る過激な意見、批判――Twitterだと日本人の特質上言葉に対して批判を行うのではなく人格を否定することばかりで見ていて嫌になるほどの、単なる低レベルな否定――によって生じた怨嗟は、誹謗中傷の原動力にもなっています。

 かかる怨嗟がひとたび人格攻撃を旨とする言動に向いてしまうと、かかる言動の対象とされた人は特に、あっという間に、自己の存在価値を見失うことになります。いじめにほかなりません。この場合には、他者との繋がりを見失い自己の存在をも疑問に思うような「寂しさ」を感じることとなるわけです。この傾向は、対面であればまだしも、SNSにおいてこそ特に強められるものであるといえます。

 Twitterの例でなくとも、ほかの例を挙げることもできます。いじめについて上でちらりと触れましたが、これも一つの例です。仲間外れもこのうちに含められます。いじめや仲間外れでは、特に疎外感によって自己肯定感の低下、いわば「寂しさ」の増加が起こります。

 いずれにせよ、「寂しさ」というものがなぜ在るのか、については一概に語ることは私にはできないけれども、「寂しさ」の生じうる場合と言うものは、日常生活に馴染みの深いところにあるのだ、ということであります。

まとめ

 以上、今回は電車自殺をする心理はいかなるものかについて考えてきました。その中で、その心理の奥底には「寂しさ」――自己存在を認めてもらえないという心理、があるのであって、この寂しさを埋めたいという希求は、承認欲求を満たしたいという希望なのだ、という話をしました。そして、かかる希望は電車自殺をするという仕方によって充足されるからこそ、電車自殺を選択するのだ、という話でした。

*1:厳密に言って一応人生掛かってるから大したことないことはない

*2:あえてこの表現を用いています。

*3:自殺の理由についてはこのサイトが簡潔に分かりやすいです。URL;http://www.ktq-kokoro.jp/lecture/1455。また、平野孝典「『自殺論』以降の自殺の社会学(1)―マクロ社会学的研究の動向を中心に―」桃山学院大学社会学論集第53巻第1号31-52頁も、デュルケーム『自殺論』の内容が簡潔にまとめられており、社会学研究の現況について解説がなされていて、興味深いです。ここではデュルケームは取り上げていませんでしたが(2019.12.11時点)、いずれ時間があるときにデュルケームについても記述して追記しておこうかと思っています。