偏光

日常のこと、いろいろ。

一杯のコーヒーからはじめる内心的革命―A Mental Revolution through Reflection, starting with A Cup Of Coffeeー

 

 本稿は、コーヒーを人生になぞらえてみようという試論です。この試みは、コーヒーを人生になぞらえるのみならず、そこから発展させて、内心、すなわち心の中に革命をもたらそうとする試みでもあります。

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0.はじめに

 みなさんは、コーヒーはお好きですか。寝起きに一杯、食後の一杯、寝る前の一杯。コーヒーは、水やお酒と同じく生活に欠かせない飲み物です。甘くして飲むことも良いでしょうし、もちろんブラックで豆の香りを味わうことも素敵です。

 シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールは、コーヒーについて面白い形容をしています。すなわち、「悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い」、と。

 同人は18・19世紀の人間です。今この言葉に出会うと、文学的で面白い表現だと感じますよね。数百年前の人間の言葉が、今なお新鮮な驚きをもって受け入れられうるということです。

 それだけに、当時よりコーヒーは、私たちを虜にして離さない飲み物であったといえるでしょう。

 さて、本稿ではこのコーヒーというものを、ひとつ、人生になぞらえて、内心の矛盾をいかに解決すべきであるのか、ということを考えていきたいと思います。そして、できることなら、より善く生きるためにはどうすればいいのか、いっしょに検討していきましょう。

 ここまで読み進めてこられて、結論は? と気になる方や、文章が苦手であるといった方におかれましては、私の記事は多少退屈であるかもしれません。この記事は、カフェインが強すぎるのです

 以下に書く文章は、哲学的であり、比較的に抽象的です。そして、必ずしも明確に結論、解決策を示すものでもありません。さらに、ウェブに書く文章としては相当程度に長くなります。しかし、何らかの思索の種を提供できるものと信じております。

 ご注意・ご了承のほど、よろしくお願い申し上げます。

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1.コーヒーを飲もう

 ぜひコーヒーを飲みましょう。目の前にあるマグカップにコーヒーの入っていないという方は、ぜひコーヒーを準備なさってください。長丁場になります。あなたの夜の、最も落ち着いた時間帯――日付の変わる頃から明け方の、しんとした時間帯がいいでしょう――に、ぜひコーヒーを片手にお読みくださいませ。

 コーヒーを片手に、私と一緒に思索の旅へ出かけましょう

2.コーヒーとライフステージ

コーヒーを人生に見立てよう

 さて、普段どおり、コーヒーを飲むときのことを考えてみてください。コーヒーを飲む時、市販のものを買って飲むときを除き、インスタントであれ、きちんとドリップして飲む場合であれ、①豆を準備して、②コーヒーを抽出し、③飲むという過程を辿りますね。

 もしも、この過程を人生に例えたらどうなるでしょうか

 ①に関して、趣味として、あるいは職業として、コーヒーに携わり、その道に明るい方は多数いらっしゃると思います。豆の選定からコーヒーを淹れるための準備については、私は残念ながら詳しくありませんので、特に述べるつもりはありません。その意味では、②についても、述べることは避けたいと思います。

 しかし、①から③について、各過程に分解し、検討することは問題ありませんね。以下、検討を試みていくこととします。

 まず、①が何に該当するのか。これは、やや安直であるかもしれませんが、死と生の狭間、いわゆる「あの世*1と据え置きます。

 次に、②と③はどうか。これは、あえて幼少期、青年期~最期、とそれぞれ位置付けることにします。

 このように①から③を分類し、区別したことには理由があります。それは、コーヒーを飲むことを人生になぞらえるにあたって、コーヒーを飲んでいる時間と飲んでいない時間、特に飲むために準備している時間とには大きな違いがあることを再確認するためです。ここには一定の合理性が認められることでしょう。

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コーヒーを飲むということ

 コーヒーというものは、飲んでいる時間が一番長く、そして最も深く近く、コーヒーというものの内実に触れている期間でして、その意味では、コーヒーを飲んでいる時間とそうでない時間とには、根本的に大きな違いがあると言えます。

 ここで「コーヒーというものの内実」とは、味、香り、温度、そしてコーヒーを飲むことによって得られる心理的なリラックス効果等のいっさいを含めたものをいうことと、ご理解いただきたいと思います。コーヒーを飲んでいない時間、ひいては豆を準備している段階は、右内実に触れていることは、圧倒的に少なくなるはずです。

 豆の準備をしている段階というものは、原産はどこのものが良いのか、値段はどこまで譲歩できるかといったことを考え、さらに挽き方はどうするか、といったことも考え、実行する段階にあります。あくまで準備ですから、その後の、コーヒーの抽出段階における保存状態や淹れ方によっては、いかようにも転ぶといえます。淹れ方によっては、少しグレードの落ちる豆であっても美味しく淹れることができるかもしれないし、逆に、グレードの高い豆であっても、ただ苦い汁にすぎなくなるかもしれません。

 豆がどのようなコーヒーとして飲まれるにいたるのか、豆の準備をしている段階、さらにコーヒーを抽出している段階においては、右不確定な要素が付きまとうのです。不確定な要素があるという意味では、コーヒーを飲んでいる段階で火傷をするとかいったことも考えられますが、それでも、ただマグカップに入ったコーヒーを飲む、という大枠に沿う意味では、その大枠のもとにあって劇的な変化が見られないということは言えるでしょう。そうすると、不確定要素が多分に大きい準備段階と、実際にコーヒーを飲んでいる段階では、大きな違いがみられるわけです。

 確かに、飲んでいない段階にあっても、香りや温度を肌で感じることはできますが、それでも、五感のすべてで感じ、そして心までも含めた効果を得らえるというわけではありませんね。

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コーヒーとライフステージ

 これをライフステージにあてはめると、人生の内実とか、本質というものに触れている時間の多いのは、青年期から最期の瞬間までということになります。そして、そうでない時間というのは、幼少期、そして、自己のうちに生命を自覚しえない時期としての、あの世の段階になります。

 あの世の段階は、豆を選定している段階にあたるのですが、人生をあてはめている以上、目に見えない世界のことまで自由に意思決定できるわけではありません。むしろ、人生においては、持ち札をどう育てていくのか、ということに主眼がおかれますね。そうすると、コーヒーを淹れている段階、すなわち幼少期の段階や、さらにその後のほうが重要性が高いといえます。

 この分類は万能ではなく、あの世など存在しないと言われたり、幼少期から人生の艱難辛苦に耐え忍び、人生の苦労と言うものを如実に感じている人もいるのに、君は何を言っているんだ、と反論された暁には私は立つ瀬がありません。ただ苦しい言い訳を終始するのみになってしまいます。

 いずれにせよ、人生をコーヒーになぞらえて議論を試みるうえでは、以下のように簡潔に整理しておきます。すなわち、

 ①豆の準備段階      = いわゆる「あの世」の段階

 ②コーヒーを抽出する段階 = 幼少期

 ③コーヒーを味わう段階  = 青年期から最期

です。以下、①から③の右辺について、それぞれ述べていきたいと思います。以下では、便宜上、①をフェーズ0、②をフェーズ1、③をフェーズ2としておきます。

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①フェーズ0;パンタレイ、あるいは輪廻転生

「あの世」という命題

 「あの世」が存在するのか。この命題については、古来より哲学や宗教において盛んに論議されてきました。ギリシア哲学においてはプラトンピタゴラスが思い起こされます。
 特にプラトンは、あの世の存在を論理的に証明してみせました。イデアの概念を理解したうえでないと理解できないかもしれませんが、非常に簡潔な論理をもってあの世の存在が導かれています。あの世というものは「ほんとうにあることなのだ」、と。
 ギリシア以外ではエジプト、ヒンドゥー教や東洋哲学が挙げられます。日本においても「あの世」の存在は広く一般的であり、馴染みの深いものです。
 もちろん無神論者を自称する人はいますし、個人の死生観とも深く関わることですから、「あの世」が存在しないものと考えるのはおかしい! などと言うつもりは毛頭ありません。あの世の存在を肯定するならそれで良し、否定するのもまた良し、ということであります。ただ、あの世の概念が生活に深く根ざしたものであることもまた事実です。

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現代の「あの世」観

 盆や墓参り、あらゆる祭祀。アニミズム的発想に基づく祭祀を抜きにすれば、ありとあらゆる風俗習慣は、みな「あの世」の存在を大なり小なり肯定する営為に収斂されます
 この「あの世」という死生観は、そのまま「輪廻転生」、あるいは「転生輪廻」の発想に重なります。輪廻転生の思想は、仏教のみならず、西欧においても根ざしています。ちなみに仏教では、この「輪廻転生」を「生死輪廻(しょうじ・りんね」ということがあります。

 そもそもこの、「輪廻転生」という見方は、今この肉体のうちに在る魂は、死後肉体の軛から解き放たれ、また肉体に宿り、新たな生を迎えるという思想をいいます。この点、あんまり突っ込んで書きすぎるとオカルト系の人間との烙印を押されかねませんので、ほどほどにしておきます……。
 さて、この「輪廻転生」の見方からは、魂は、肉体に宿り、死後また魂となり……という流れを繰り返している、というふうに説明されます。

 魂の姿(外見)が、肉体を纏った状態、纏わない状態、纏った状態……と、絶えず変転していくという意味では、「パンタレイ(panta rhei, 万物流転)」の思想に似ているかもしれません。「パンタレイ」というのはヘラクレイトスの思想で、あまり馴染みがない概念であることと思います。この概念は、日本人に馴染みの深い言葉としては「諸行無常」が近いです。これなら直感的に意味が理解できるでしょうか。
 この思想において、肉体を持たない状態、肉体を持たない魂の在る場所を「あの世」と形容するわけです。

 肉体と魂を区別する考え方としては、古代エジプトの霊魂観である、「ハー」と「カー」がこれに当たります。この観念によれば、人間の霊魂というものは5つに大別されるのですが……さらにオカルトっぽくなりますし、これはまた別の機会で。Wikipediaなどで参照されると概要が掴めて面白いと思います。
 さて、身近な「輪廻転生」の思想を挙げれば、「異世界転生もの」というジャンルのライトノベルが近年出版されることが多く見受けられますね。異世界転生もの」における「転生」というのは、ここに端を発しているといえましょう。

 また、近年の映画『君の名は。』においては前世の概念が用いられていましたし、主題歌「前前前世」などはもう言葉の要らないほど分かりやすいですね。
 さて、「あの世」の概念についてごく簡単に概観してきました。学術的な定義などはその分野の専門書に任せるとしまして、次に移りましょう。

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小括

 「あの世」。たとえ熱っぽく「あの世は存在するのだ!」と言われたとしても、信じきれないのが人情というものです。自分が見、信じるきっかけを得られたなら、自分自身は信じることができます。しかし、それは自分以外の人もあの世を信じるという結果になりえませんね。ですが、ここでは一先ず、便宜上信じるものとして、このフェーズ0を定立することとしておきます。
 上で、コーヒー豆を準備している段階、コーヒーを抽出する段階は、コーヒーがどういったものになるのかについて、不確定性を伴うのだ、という話をしました。フェーズ0においてもこれは変わりません。魂というものの存在さえ化学的に知覚できず、ましてやこれに触れたり動かしたりすることのできない私たちにとっては、あの世の魂を選別することなど、できようはずもありません。コーヒー豆を選び、是非を問うことはできても、あの世の存在を問い、魂をいかようにか扱うということは、できないのです*2。身体について、これまであまり触れていませんが、身体についても同様です。あの世よりこの世に産み出された身体、すなわち持って生まれた身体の是非を問うことはもとよりできず、問おうとすることじたい愚かなことです。なぜならば、生み出された身体というものは各人固有のものであり、それゆえに身体的特徴において差異が生じるのは当然だからです。是非を問うことがあるとしても、それは主観的恣意的基準に依るにすぎず、その基準が客観的であるということは絶対的にありえません。この身体はあの身体より優れていないなどと劣等感を抱くことは幻想なのであり、また逆に、この身体はあの身体よりも優れているなどと選民意識を抱くことも勿論幻想、まったくの誤りです。
 いずれにせよ、「あの世」の魂、ひいては「あの世」からこの世に産み出された身体およびこれに入る魂を、選別したり、あるいは是非を問うたりすることはできない、ということであります。
 ですので、あの世についてこれ以上あれこれ言っても話が進みませんから、いったんはこれでフェーズ0の話は一段落としたいと思います。

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②フェーズ1;幼少期

不確定性序論

 幼少期というと、ヘッセの小説を思い出します。「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」でお馴染み、『少年の日の思い出』です。この幼少期について、詳しく見ていきましょう。
 上の方では、コーヒーを抽出する段階にこの幼少期を当てはめていましたね。また、コーヒーがどのようになるのかというものは、この抽出段階において不確定性を伴うのだという話もしました。
 コーヒー抽出段階における不確定性とは、コーヒーがどのような味わいになるかをいいます。淹れ方が下手であれば、当然美味しいコーヒーは飲めなくなります。逆に淹れ方が上手であれば、コーヒー豆の味を引き出すことができます。また、極端に保存状態の悪い豆や、古い豆を使う場合には、たとえ淹れ方が上手であろうとも、美味しいコーヒーとは言えなくなるでしょう。豆も悪く淹れ方も悪かったときのコーヒーは、言うまでもないことです。
 では、幼少期における不確定性とは何か。これは、人間がひとりの人間として社会に出ていくに当たり、どのような人格を形成するのかは、ひとえにこの幼少期にかかっているということです。その意味で可変的であり、不確定なのです。

人格の形成

 一応断っておきますが、前にも述べたように、こと人生を考える上では、身体や魂を選別するということは一切できません。素材が悪いときはコーヒーも悪いのだというような話をここでするつもりはありません。すなわち、人間は生まれながらにして人格が定められており悪い人格を持つ人間は悪いままでそれ以上どうしようもないのだ、とでもいうような議論をするつもりは一切ありません。
 そのうえで幼少期について考えていきましょう。人格の形成は、周囲の環境に依ることが大きいというのは科学的経験的にも明らかなことで、それゆえにこそ幼少期が重要となってきます。
 人格を形成ないし変容せしめる要素としては、種々ありえるところです。たとえば、家庭環境、学校、職場、近隣住民。ここでは幼少期を問題としていますから、家庭環境が最も影響の大きい要素でしょう。次点で学校、その次に近隣住民。

社会的環境と人格形成

 乳幼児・児童は、家庭に属し、家庭の庇護のもとに、家庭の教育を受け、そして、保育園や幼稚園、小学校へ。同時に、幼少期から近隣住民とのふれあいのもとに、大人と子どもとの違いを理解し、子どもとしてのアイデンティティを確立していく……というふうに進んでいく中で、周囲の社会環境の影響を如実に受け続けることになります。

 まぁもっとも、子どもの近隣住民との触れ合いに関しては、最近は希薄であることが多いようですし、実際、大人でさえ近隣住民との繋がりが薄いことが多いのですから、そのような大人のもとにある子どもは、繋がりが薄くなりがちであるというのも当然のことでしょう。

 そのようにして周囲の社会環境の影響を受けながら、子どもの内心において自我が発達していく過程についてですが、これについても詳細は専門家に譲ることとします。ただ、自我――ここでは人格と読替えてもいいでしょうが――ひいては傾向性の発達は、周囲の影響を何よりも受けるのだということを、今一度ここで示しておきたいと思います。

 すなわち、周囲の環境によっては善良で良識のある自我が生じうるし、逆に、周囲の環境によっては本人の認知を歪め、非行ないし犯罪行為に親和的な傾向を持つ自我を生ぜしめうるということであります。

 「愛のある家庭で育った子は優しい子だ」などというのは良く聞く話で、実際にも周囲の人間から「愛がある良い家庭」だと評されている家庭の子どもは、他者に対して道徳的に善とされる立ち居振舞をするというのは誰にでも理解できる傾向であります。

 逆に後者については、これもまた誰にでも理解できる傾向です。というのも、非行や犯罪の多発する地域に生きる子は、往々にして犯罪や非行に手を染めるという傾向にあるのです。もちろん、周囲の環境に影響を受けていることは言うまでもありません。犯罪多発地域の例を出さないまでも、たとえば小中学校で授業、すなわち集団からはみ出る子は、同じく集団からはみ出るような子と仲良くなる傾向にあることを考えていただければ理解できるでしょう。

 ちなみに、何も子どもだけに右傾向は限ったことではありません。スラム街が犯罪が多いというのは良く知れた話です。また、学問的な観点で言えば「割れ窓理論」というのが歴史上、右傾向を示すうえで驚異的なインパクトをもって受け止められました。高校・大学などでも一度は耳にする言葉ですし、テレビなどでも取材されている場合ももちろんあることでしょう。

 ただ、ここで注意しておきたいのは、短絡的な決めつけはすべきではないし、私はそのような話をしているともりは毛頭ない、ということです。何を言っているかといいますと、犯罪が起きやすい地域に育った子は人格的に悪だと決めつけるのは早計で、逆に、世間的に善良だと言われるような家庭のもとにある子が善良な人格を有するのかというと、それもまた早計だということです。

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人格形成における不確定性

 犯罪多発地域の出自の活動家が慈善活動に執心するというのは十分ありうる話ですし、逆に、何一つ社会的な問題を抱えておらず、周囲からの評判も高く、まさに「愛がある良い家庭」とでもいえそうな家庭の子が極悪非道、残忍極まるような猟奇的殺人事件を起こし、ひいては親さえも殺すというのは、往々にして在ることなのです。

 その意味で人格の形成というのは、不確定的です。どのような影響を受けるかによって、どのような人格が出来上がるのかが変わってきます。同じ人間なのですから、立場が違ったなら違う人間になりうるのです。

 社会において、一人一人の人間が、それぞれ個別の人格を有するに至っているのは、それぞれ個別の環境に身を置いているからです。まったく同一の環境でまったく同一の影響を受けたならば、生理的な誤差はあれどまったく同一の人格が形成されるでしょう。人を生産工場のような場所で飼育することを考えてみてください。この際、倫理的な問題は無視します。

 この工場では、生まれた瞬間から毎日まったく同じ時間、同じ独房、同じ景色を見て、同じ食べ物を食べ、看守とでも呼ぶべき工場の管理者の、まったく同じ言葉を全く同じ量だけ聞き、これをひたすら、際限なく繰り返すこととします。

 そうすると、独房の彼らが大人まで育つのを待つまでもなく、幼少期の人格形成の段階において、同じ人格――まったく無個性の、まったく何も感じないような、まるで機械のような非人間的存在――が成立することは、想像に難くありませんね。

人格形成における可変性

 この、人格の形成において、立場が違うならば違うなりの結果――人格が形成されるという点に関して、これが可変的であるということに関して、少し説明しておきたいと思います。先の工場の例を持出します。独房の彼らが、ある日突然、それぞれの親元に返されることが決まったとします。工場はあまりに非人道的な実験を行っていたがために、即時解体されたのでした。当然彼らはそれぞれの親元、すなわちそれぞれ異なる環境に配属されることとなるのですが、こうなってくると、ここに人格の差異というものが生まれ始めます。

 ある親は帰って来た我が子に歓喜して、日々丁重に取扱い、新しい世界、子が知らなかった世界を見せてあげようと愛をたくさん注ぐでしょう。またある親は、特に望んでつくったわけでもない我が子について、いきなり帰って来たことで手間が増える、と憤り、忌避するでしょう。このような親たちのそれぞれの態度はきっと、我が子が帰って来た日よりも後、恒常的であると想像できます。これを幼少期の体験として彼らが経験を蓄積した場合、ある子は人嫌いをせず、明るく社交的な人格を持つことになるでしょうし、またある子は、人間なんて取るに足りない、信じられるのは何もない、と心を閉ざすでしょう。

 このような思考実験から言えるのは、人格と言うのは可変的で、立場が違えば人格も変わってくる、ということです。

小括

 さて、これまで人格の形成が不確定的可変的に起こる現象である旨説明してきました。まとめると、良くも悪くも、周囲の影響を受けることで人格が形成されていくということなのです。そして、人格の形成というのは、周囲の、どのような影響を受けるかによって決されるところ、不確定であり、可変的であります。

 そうすると、この幼少期にあっては、人格を形成するうえでどのような環境に身を投じるか、あるいは身を投じさせるのか、といったことは、親類にとっては重大な関心事でしょう。だからこそ子育てというのは不安で、間違った育て方をしたのだとしたらどうしよう、という不安が影として背中に付き従ってくるわけです。なぜならば、人格形成にあっては不確定性がついて回るのですから。

 先ほどまで、人格の形成について、それが不確定であり、可変的でもあるという話をしていました。

 再びコーヒーの話に戻りましょう。コーヒーの抽出過程を幼少期に見立てる、ということでしたね。そこでは、コーヒーの抽出段階においては不確定性がある、という話をしていました。可変的であるという話こそしていませんでしたが、人格についての説明のところでお分かりいただけたように、不確定であるからこそ可変的でもありますし、コーヒーも人格の形成も、不確定性がある、ということでご理解ください。

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青年期以降の不確定性;フェーズ2への導入として

 この不確定性は、青年期以降はあまり問題とはなりません。なぜならば、幼少期において人格の大枠が定まってしまうからです。PTSDとはいかないまでも、心的外傷後、人格が変容することもありますし、PTSDの結果として人格が変容することもあります。心的外傷がないとしても、何か激しい情動、自己自身の省察によって性格が変容することもありますね*3。ですが、これらはいずれも、例外的なものです。「三つ子の魂百まで」という諺がありますが、まさにこの通りで、人格というのはなかなか変容させられるものではありません。まぁ、アドラーのように、性格というものを簡単に変えられるというものも、あるにはあるのですが、いずれにせよああいった自己啓発によって自己の人格を変容させるというのは、決して容易ではありません*4

 であれば、なぜわざわざ不確定性を問題としたのか。なぜこれだけの文字をもって不確定性を問題としてきたのか。これは、のちに述べる「内心的革命」(私の造語ですが、ほかにも用例があるかもしれません。)のところに関連してくるからです。

 ひとまずは、次に参りましょう。

 ②フェーズ2;青年期以降

青年期以降

 次に述べるのは、青年期以降についてです。この青年期以降は、何よりも人生の中核を担う時期と言っても過言ではありません。人間を80年生きる動物だと仮定すれば、幼少期は出生から10年余年にすぎないのですから、実に70年以上も、このフェーズ2に該当するということになります。

生老病死苦;ありとあらゆる苦しみ

 このフェーズ2が、喜びや楽しさ、幸せに満ち溢れたものであればよいのですが、残念ながらそうではありません。苦しみ、憎しみ、怒りといった負の感情があちこちに散りばめられ、あまつさえ死に満ち溢れたものであり、愛や生の実感といった幸せなテーマはごく一部のことで、絵空事にすら見えるかもしれません。

 この、人生のどうしようもないやるせなさや儚さ、出口の見えない苦しみの連鎖がいかに受忍しがたいものであるのかは、有史以来宗教というものが人類の心に深く、深く根差したものであり続けていることを見れば明らかです。

 ちなみに、宗教の大きなテーマは、死であり、やるせなさや儚さをいかに乗り越えるのかについてなのであり、苦しみをいかに受容し、乗り越えていくのかということにあります。ここで「宗教」の語を用いていますが、これは特定の宗教に立脚したものを言っているわけではありません。いわば「人生哲学*5であり、精神論であり、心の休まる場所、というような意味でご理解ください。

 もう少し宗教的な話をしましょう。

 仏教において、「生老病死」という概念がありますが、まさにこの、生きること、老いること、病に罹ること、そして死ぬことについての苦しみをいかに超克していくかが宗教というものの課題であり続けています。仏教のみならず、キリスト教イスラームヒンドゥー教……。ありとあらゆる宗教において、このテーマ、すなわち、右苦しみの超克は、共通しているものであると言っても過言ではありません

 この人生における「生老病死」の苦しみは、誰彼問わず日々抱えているものです。私ももちろん抱えています。今後どのように生きていこうか、あるいは生きていけるのか。不安で仕方ありません。自己の内部に矛盾した感情を抱え、まるで理性と感性が対立してバラバラになるように、頭がおかしくなるかのように感ぜられることも、ままあります。不安で眠れない夜を過ごすことも、ほぼ毎日のようにあります。

 人生について偉そうに書いているくせにその程度か、とおっしゃるならおっしゃってください。甘受しましょう。でも、それほどこの「生老病死」の苦しみを超克することは難しいということでもあるというのは、お分かりいただけるでしょう。

 生老病死の苦しみについて、多少客観的な例をみてみましょう。すなわち、「

正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。 

 」と(ローマ信徒3章10節)*6。これは聖書の執筆者であるパウロをして絶望によってこのように嘆かしめているわけです。また別の例を見てみましょう。すなわち、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか)」(マタイ27章46節)と。これはイエスの言葉とされています。カタカナ表記については幾例かありますから、気になった方はご自身で検索してみてください。

 エスでさえ悩み、絶望し、苦しむのです。ましてや人においてをや、です

 聖書を例に出さないまでも、現代社会の病理として日本の例を挙げてみれば、自殺者が年々出ていますね。あれが生老病死の苦しみに起因するものでなくて何に因るものだと言えましょうか。自殺者の統計が一定間隔で公表されますが、あれは相当数にのぼります。それだけに、人も、社会も病んでいるのです*7

 悩みのない人などいません。ましてや右苦しみを超克できるような人などどこにもいません。あの人も、この人も。みんな悩んでいます。

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ニヒリズム生存戦略

 もはやこの社会には苦しみしかない。右も左も呪うべき人たちばかりで、皆私利私欲のために行動している。正義というものも、法も、結局は持てる者の論理であり、すなわち強者の論理なのであり、言訳であり、実態を伴わない空論である。「正直者が馬鹿を見る」。努力は報われず、意味をなさない。誠実に生きると常に誰かに虐げられる。食い物にされる。なのに、どうしようもない人間、「おしまいの人間」ばかりが、もてはやされ、社会において地位を確立し、さらに他者を食い物にする。言葉は役に立たない。口約束はまやかしと推定するのが順当で、裏切られることを前提に行動しているほうがよい。そうだ、人は裏切り裏切られるだけの存在なのだ。こんな、すったもんだの世の中においては死は何よりも救いであり、甘美な誘いであり、幸福である、なればこそ一切の希望を捨てよう――落ち込んでいる期間は、生老病死の苦しみに耐えきれず、このように結論を急ぎたくなるものです。

 生きることがこんなにも苦しいのですから、死に対して甘美な誘惑を感じることは当然で、また、人を呪ってやまないのも当然*8、「神は死んだ!」と言いたくなるのもまた当然であります。もはや感情を殺して、ただ機械のようにすべての情報を、情動を、かかわりを、一切合切捨て去って取り払ってしまえば、楽に生きられるのか。このような疑問を持つこともあるでしょう。私もかかる疑問を抱くことはあります。

 実際、上に述べたような、命の輝きさえ断捨離してしまうような方法――生存戦略とでも言えるかもしれません――を採るほうが、割合楽に生きられるでしょう。しかし、それは短期的なものにすぎません。なぜならば、かかる方法というのは、いつか破綻する方法でもあるからです。

厭世的なコーヒーの嗜み方

 そもそもかかる方法(以下、「ニヒリズム生存戦略」と呼称することにします。)は、すべてに対して否定的に、厭世的に、無駄なものを省いて生きる生き方であります。ニヒリズムそのものです。無駄を省いて生きる、としましたが、確かに無駄を省く分、楽ではあります。無駄な社交をする必要がなく、無駄な労力を割く必要が全くありませんから。

 しかしそれだけに、より善く生きる方策をすべて捨て去ることにもなります。厭世的に生きるということは、厭世的な生き方をしていない人々にとっては忌避・敬遠の対象となりえます。そして忌避・敬遠の感情は必然的に増幅され、やがては差別的意識の発生へとつながってしまうのです。したがって、ニヒリズム生存戦略は、より善く生きる在り方*9――より快適に、より幸福を、楽しさを、より充実した生活を求めるような在り方とは、程遠い物になるといえます。

 せっかくのことですし、このニヒリズム生存戦略を、コーヒーを飲むことになぞらえてみましょう。この場合、コーヒーをただ飲むことが、この生き方に該当します。ただ飲む、ただ飲むだけです。出されたものをそのまま飲む。何も感じず、考えない。加えて、コーヒーの味に文句を言いさえする。

 このように言えるのは、ニヒリズム生存戦略と、コーヒーをただ飲むという所作が、姿勢が、態度が、諦念に満ちた不遜な態度であるという点で共通しているからです。コーヒーをただ飲むということは、換言すればこの嗜み方は、飲む際にコーヒーだと認識しているだけであって香りを確かめることもなく、味を確かめることもないということです。この場合、豆がどこの原産であるかなど、当人が考えるはずもない。

 街角の一角、若夫婦が仲良く笑顔で切り盛りをしているような、個人経営の小さなカフェを想像してみてください。そこでは小奇麗にしつらえられたテーブル、カウンター。そして、おしゃれな異国のアンティークがあります。そのような場所で、コーヒーを注文し、出されたコーヒーを真顔で飲み、特に味わっている素振りも見せず、飲んでいる最中も、また、飲み終わってからも何も言わないとしたら、どうでしょう。不遜な態度であるばかりでなく、多分に冒涜的ですらあります

 まぁ、他人の生き方を否定できるわけではありませんし、厭世的な生き方にも一定の利点は認められるのですから、それが人生に対して冒涜的であるなどというつもりはありませんが、少なくとも、ニヒリズム生存戦略のごとき在り方には、疑問の余地がありますね。

小括

 この節、すなわちフェーズ2においては、「生老病死」の概念を引き合いに、厭世的な生き方――「ニヒリズム生存戦略」と呼びました――を説明し、それと対極にある生き方を説明しました。以下では、いよいよ本稿の核心部分、「内心的革命」について述べていきたいと思います。ひとまずは、ここで区切りです。そして、次のように問題提起します。

 果たして、この長い長いフェーズ2を乗り切るにあたって、このニヒリズム生存戦略を採っていて良いのでしょうか。

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3.マグカップから革命を

人生における「矛盾」とは

 先ほどまで、人生には生老病死というものがつきまとうというお話をしました。ここでは、人生に伴う苦しみに伴って、自己自身の心の中に生まれる葛藤や矛盾というものについて、焦点を当ててみましょう。

 ここで矛盾とは、内心において理性と感性のぶつかる瞬間をいうものとします。この理性と感性のぶつかる瞬間とは、何かに際して迷っているとき、それに関わる決断について苦悩しているとき、ある一定の物事を遂行することが明らかに善ではあるけれども、それをどうしても実行したくないときなどをいいます。種々のケースがありうべきですし、一概に言えませんが、上にあげたような例は確実に内心的な矛盾の例として挙げられるでしょう。葛藤というのはこの矛盾に関連して起きる事象ですので、深く立ち入りませんが、おおむね矛盾と同様の意味を想定しています。

矛盾の類型

 もう少し矛盾についてみていきましょう。人生における矛盾というのは、いくつか類型に分けることができるでしょう。すなわち、

 ①理性が命じるけれども感性が応じない、

 ②理性が命じないうえに感性も命じないが、意に反して何かなさざるをえない、

 ③感性が命じるけれども理性が応じない、

 ④そもそも何をどうすればいいかわからない、

ときです。

 各個見ていきましょう。

 ①は、理性が命じるが感性が応じない、すなわち、やらなければいけないけど、やりたくない、という状況です。②は、理性も感性も命じないけれど、何かについて作為または不作為の決断をしなければならないという状況です。③については、やりたいけれど絶対やってはいけないという状況、④は、何かについて作為または不作為をすべきなのだけれども、もはやどうすればいいのかわからず途方に暮れているような状況をいいます。

 具体例をそれぞれ挙げておきます。過激な例ですが、殺人を挙げます。家族でレジャーへ向かう途中のバスで、拳銃を持った男が4名ほど押し入ってきて、いわゆるバスジャックの事案が発生したようなときを想定します。

 ①については、たとえば、あなたの愛娘を人質に取られ、犯行グループのうち一人に拳銃を渡され、「隣に座っている人を殺せ。さもなければお前の娘を殺す。」と言われたときです。隣の人を見れば、もう大粒の涙を流して、お願いだ助けてくれ、と懇願しているのです。こんなとき、誰がどう考えても、こんな汚れ仕事はやりたくありませんよね。殺人なんて狂気の沙汰だ、と思うはずです。道徳的倫理的に、やりたくない。さらに言えば、道徳や倫理を持ち出すまでもなく、感覚的にやりたくない、と思うでしょう。でも、愛娘のためには、やらざるをえない

 ②については、たとえば、あなたは号泣して、先ほど男を殺すのを拒んだために、先ほどの犯行グループの男が、やきもきして、今度はあなたの口に拳銃を入れ、引き金に指を掛けた状態で、やれ、と命じたとします。ところがちょうど警察がやってきて、犯人の焦りは増すばかり、片手間にバスの乗客を殺していきます。すると、犯人がこう言います。「やれば解放してやるし、俺たちは引き上げる。」と。この場合、理性としては、次のように判断します。すなわち、犯人が言っていることは嘘かもしれないし、唆されているとはいっても警察の手前で殺人をすることは賢明ではない、と。それに、気持ちとしても、人を殺すなんて、絶対にやりたくない。でも、やらなければならない

 ③についてみましょう。重い話が続きましたね。例を変えます。③としては、不倫の誘いを受けたときを挙げておきます。言わずもがなですね、省略します

 ④のほうが重大で根深い問題かもしれません。これは葛藤に正しく重なるもので、もう何もかもわからない、と、自暴自棄になっている状態です。ニヒリズム生存戦略を採っている状態も、もはや何もかもわからなくなって迷走しているという意味では、この範疇に含まれます。ニヒリズム生存戦略は、人生における矛盾なのです。

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矛盾の超克に当って

 さて、この人生における矛盾を放置しておいてよいものでしょうか。そんなはずはありませんね。このような矛盾は、生老病死苦のうちにあるものですから、耐えがたい苦しみを、痛みを、伴うものです。であれば、どうにかしてこの苦しみから逃れるなり、受け入れるなりする必要がある。

 ①から③は、その時々においてどのような気持ちで乗り切るのか、ということに依るところが大きいですから、どのように各類型の矛盾を解決すべきかということについては、一概に述べられません。しかし、④については、なんとか述べられるかもしれません。さっそく議論を試みましょう。

 改めて問題提起を確認します。人生における④の矛盾、すなわち、もはや何をどうすればいいのかわからないという状況にあって、ニヒリズム生存戦略を採っていたり、採ることが視野に入っていたりする状態を、どのように解決すべきでしょうか

省察

 私は、これは「省察」を用いれば、この矛盾を解決していくための足掛かりとし、人格の不確定性により、内心において精神的な変容に至る、言い換えれば革命を起こすことさえ、可能であると考えます。

 そもそも省察とは何でしょうか。これは、「自分自身をかえりみて、そのよしあしを考えること」をいいます。定義としては「反省」に近いのですが、反省にはネガティブなニュアンスがあります。往々にして反省を使うとき、反省文を書く、反省しなさいと怒られる、と言うものですが、どちらも否定的ニュアンスで用いられていますよね。怒られて、謝罪の意を固めさせるといった意味で用いられていることがきっと多いはずです。

 でも省察は、それとは違うのです。言葉の綾だと言われればそれまでですが、省察には反省のような否定的ニュアンスが含まれていません。個々の失敗、体験をじっくり振り返り、それに基づいて、改善へとつなげていこうとする営為、これが省察なのです。

 では、省察と言う方法が、どのように矛盾解決の足掛かりとなるのでしょうか。これは、省察の結果を次の行動に導入することで、矛盾解決の足掛かりとなるものと考えます。

 すなわち、先ずは自己との対話――自己の内面を問い、考えること――をし、そして、次からはこうしていこう、前は良くなかった点を改善しよう、と心がける、ということです。至極一般的なことを言っているように聞こえるでしょうが、これがなかなか難しいことです。いうのは簡単だけれどもなかなか実行できない類の方法論(自戒を込めて。)なのです。

 省察では、まずは自分の過去と対話します。対人関係で失敗した経験は誰にでもあるものです。ただ自分自身を悪い、欠陥だらけだ、と責めるようではまったく建設的ではありません。そうではなく、対人関係で失敗したときの経験について、あのときは、このような点で失敗した。なぜならばそれは、このような点が悪かったからだ。でも、このような良い点もあった。それは、このような失敗経験から、このようなことを学べたからだ……と。ただ自分を責めるだけではないというのがご理解頂けるでしょう。

 具体例を挙げておきます。たとえば職場での伝達ミス。長期的な関係であればこその伝達ミスというのはいつでも起こりえるものです。あの人ならば伝達は、意図は、伝わっているものだと思った、というようなとき。このミスにおいて、「なぜ私は、失敗してばかりなのだろう、慢心によって、簡単な伝達でさえロクにできないではないか。」このように自分を責めるとき、これは反省のうちに含まれるものにすぎないのであります。

 省察という考え方では、このようにしません。いたずらに責めるだけではなくて、次に繋げるための思考が介入してきます

 すなわち、「確かに失敗はしたけれども、簡単な伝達でさえ、『あの人なら打丈夫だ』という慢心によって失敗することのないよう、気を付けるべきだということが分かって良かった。相手の反応もきちんと見るようにして、丁寧に確認するようにしておこう。」と考えます。

 これが省察です。そして、この省察によって得た成果を、そのまま実践に用いれば、矛盾解決をするための糸口となってきます。考えてばかりいないで、まずはやってみよう、ということでもあります。考えてばかりいては、悩んでばかりいては、息が詰まってしまいますから。行動することによって見えてくるものもある、ということでもあります。ただし、考えてばかりはいけないから考えなくてもいいということではありません。

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内心的革命への糸口

 先ほどの伝達の例であれば、実際に同じ人に伝達をするときには、きちんと目を見て話して、その内容について、失礼のない範囲で何度となく確認するといったことが、省察によって矛盾解決のための足掛かりになります。

 このように、一つずつ足掛かりを積み重ねていけば、やがてそれは習慣になりえます。言葉や行動が習慣になるとは良く言うことですが、まさにその通りなのです。意識した思考の繰り返し――型とでもいいましょうか――が習慣になる頃には、考え方が変わってきます。そしてそれは、人格が少しずつ変わり始めているということを意味します人格の不確定性というのは、この点において現れます

 人格の不確定性というものは、人格は変わらないものであると決めつけるようなものでないことは、今までの話でご理解頂けると思います。むしろ、人格は、程度の問題はあるにせよ徐々に変えていけるものである、ということです。不確定性は、人格の変容に、一定の希望を示す、いわば灯台のようなものなのです。

 さて、上に見たこの流れが、人格の変容――「内心的革命」と言えましょう――に至るための、道筋なのです。

 マグカップから革命を

 さて、内心的革命を起こそうと望むとき、どうすればいいのでしょうか。

 些細な問題について、些細な意識を変えるというのであれば、各個省察して、行動や思考の型を変えていけば良いでしょう。

 しかし、革命を起こすのです。何も伝達ミスの問題のように、一つの問題について省察をしていれば良いというものではありません。なぜ? と問う、思考の型を身に着けることが、内心的革命へ至る鍵となります。

 コーヒーになぞらえてみましょう。たった一杯のコーヒーからでも、革命に至る道筋を切り開くことができます。すなわち、コーヒーを無意識的に飲み、味わうのではなくて、なぜ飲んでいるのか、飲むとどうなるのか、飲むことで何が変わるのか、あるいは変わらなかったのか、と、問うのです。問い、思考する癖をつけるのです。

 「なぜ」と問うこと。これが、省察による内心的革命の手段として何よりも有効といえます。なぜ、自分はあのように考えたのか、行動したのか、失敗したのか、あるいは良い結果に結び付けることができたのか――、と。

 このように思考の癖をつけると、省察は非常に容易になります。そして、おのずと矛盾解決への糸口が開かれ、ひいては内心的革命へと至ることができるようになるのです。

 マグカップから革命を、としているのはこういう理屈なのです。一杯のコーヒーからでも、思考の型を新たに作って、あるいは変えていくことで、人格さえ変えていける、ということです。ぜひ、コーヒーの入ったマグカップから、革命を起こしていきましょう

内心的革命の帰結

 内心的革命へと至ることができれば、あるいは内心的革命へと至ることができないまでも、省察の癖ができれば、どうなるか。これは、より善く生きることができるようになるということにほかなりません

 内心的革命へと至ることなど不可能であるという懸念がないではありません。実際、わたしがこの概念を作りだしておいて、内心的革命へと至ることができたのかと言うと、返答に窮するといったところであります。容易ではないのです。ですが、省察という思考の型は身に付けられています。考えすぎると批判されることもありますが、それでも、あれこれ考えて、試行錯誤して、自己とひたすら対話し、その結果を次なる場、次なる状況に適用することで、きっと内心的革命へと至ることができると考えます。

 もちろん、そんなの絵空事だという批判や、人格を変えてどうするという批判もありうるところですし、それは仕方がありません。ただ、絵空事だと諦めたり、人格を変えたって意味がないと結論を急ぐことよりは、絵空事を空想し、変えようと試行錯誤することのほうが、よほど意義のあることだと固く信じています。

小括

 さて、この節では、人生における矛盾というものを概観し、なかでも、漠然とした矛盾について、省察を用いて解決できるのではないか、そうすれば人格の変容――内心的革命との語を用いました――へと至ることができるのではないか、と提案をしてきました。

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4.おわりに

まとめ

 以上、コーヒーを飲むということを皮切りに、コーヒーを飲む所作を区分し、さらにこれを人生にあてはめました。そして、人生における各段階、すなわちライフステージについて概観したうえで、特にフェーズ2における生老病死の苦しみについて見てきました。そのうえで、生きる上での矛盾を区分し、そのうち、「ぼんやりとした不安」とでもいうべき矛盾のいち類型について、これを省察によって超克することができるのではないか、との見方を示しました。加えて、省察を突き詰めていけば、人格の変容にさえ至ることができるということを、「内心的革命」との語を用いて説明しました。

所感

 いかがでしたか。突拍子もないタイトルで、しかもべらぼうに長いタイトルで、混乱された方もおられるのではないでしょうか。まぁ個人的な感想としては、書いているほうとしても相応んい辛いものがありましたし、わたしの文書力の稚拙さを思い知りました。それに、ここまで長い文章を、最後まで読んでくれるひとがいるとも全く思えません。

 ですが、もし読んでいただける方がいるのであれば、これほどうれしいことはありません。一瞥でも構わないのです。

 私が望むらくは、誰かひとり、誰かの目に触れ、そしてその誰かが、この記事に散りばめた論点を脳裏に過らせ、ほんの数秒だけでも考えてくれることです。コーヒーを片手に、何か変なことを言っている奴がいるな、仕方ない、ちょっとだけ考えてあげようか、と。それだけで、そのように思ってくれるだけで、記事を書くに当っての疲れなど吹き飛ぶというものです。

 ところで、ここまで長い記事を書くというのもはじめてではありますが、この文字数を収められるはてなブログのシステムにも驚きです。可能性を感じました。

*1:ご存じでしょうが、「霊界」ということもあり、非物質的な精神世界です。

*2:この点、男女の産み分けの話にも繋がるでしょうか。このような条件であれば男性あるいは女性が生まれるという試みは、科学的に意味を持ちません。仮に意味があるのだとしても、有意な差をもたらさないでしょう。

*3:特に後者、これはいわゆる「悟り」です。

*4:この点、アドラーのような人格についての自己啓発を通じて自己の人格を変容できたという方はぜひとも私にお知らせください。ぜひお話を伺いたいのです。

*5:わたしはこの言い方があまり好きではないのですが……。便宜上仕方ないところです。ちなみに、宗教というものについては、西田幾多郎の著書を読むと深い洞察が得られるでしょう。

*6:この一節、私は大好きです。

*7:この際、自殺に関する本でおすすめの本を紹介しておきます。それは、エミール・デュルケーム『自殺論』です。自殺というのはともすれば個人の心の問題として片づけられがちですが、この点に問題意識をもって、社会の側から自殺と言うものの本質を説明しようと試みた点が、デュルケームらしい視座で面白いです。おすすめしておきます。

*8:この「呪ってやまない」という点に関して、私の好きな言葉を引用しておきます。話の内容とは関係がないのかもしれませんが、『もののけ姫』の登場人物に、病者の長というのがいます。その長の言葉が、次のようもので、生きることの苦しみを、病に伏せる苦しみを、非常によく言い表しています。すなわち、「生きることはまことに苦しく辛い。世を呪い、人を呪い、それでも生きたい。愚かなわしに免じて」と。

*9:享楽的な生き方に没頭することをより善い生き方とは言っていません。ご注意ください。