偏光

日常のこと、いろいろ。

日記を続けるには;その方法と実践(その2)

 前回に引き続き,「日記を続けるには;その方法と実践」です。2.の「私自身の取り組み」というところで一区切りとしましたが,今回は,その2です。

 

3.私自身の取り組み(2)

 私は,日記をつけるにあたり,最初から,一定のルールを設けていました。それは,①同じノートに書き続けること(文字でノートが埋まったら,次のノートへ移るということ。)。②なるべく毎日,書き続けること。この2つのルールです。これらを貫いたまま,9年間,ずっと書き続けられたなら,苦労することはなかったでしょう。やはり,事情があったり,日記をつけるという気分になれなかったりするときには,続けられないことがあるものなのです。

 日記を続けられない原因は,たいてい,

  ①マンネリ化,

  ②忙しい,あるいは心の余裕がない,

  ③日記をつける意味を見失う,

ことにあります。

 私はこれまで,この3つの原因に対処するうえで,たとえば,

  Ⅰ筆記具を刷新する,

  Ⅱ無理に毎日記録しようと思わないようにする,

  Ⅲ日記をつける意味を何度も問い直す,

ということを行ってきました。この通りにすれば日記を続けることが問題とならないのか,と問われると,それは間違いです。なぜならば,これは私個人の経験則に過ぎず,一般的普遍的に,他人に適用できる類のものではないからです。しかし,右原因・方法の検討は,決して無駄ではなかったものと信じています。この検討を通じて,今の在り方が確立され,今,こうして不特定多数の誰かに自信をもって共有できる機会を,手にすることができたからです。

 以下では,①から③,ⅠからⅢの,原因・方法について,詳しく述べていきたいと思います。

1.気分を変えること

 私が,日記を続けられない時(または到底続けられないような心理状態に陥った時をいいます。以下,便宜上,「スランプ」と呼びます。)に,最初に取組んだことは,なるべく気分を変えるということでした。

 スランプ時にあっては,いろいろな疑念,たとえば,「いつまでこんなことをやっているのだろう」,とか,「何のためにこのことをやっているのだろう」,とか,「これを続けて,結局何になるというのだろう」,とかいった疑問が,湧いてくるものです。いずれも,目的や得られる利益のことを天秤に掛けているわけでして,汚い言い方でもって換えれば,結局のところ,日記を続けることについては,得られる利益との関連での,損得勘定でしかないわけです*1

 先が見えない,先が見えない作業に取り組んでいると分かっている。一定の成果は残せたにせよ,未達成の部分があまりにも大きく,永遠にも等しい時間,ひたすら日々の記録をしなければならない,もううんざりだ……。デメリットに着目すれば,マンネリ化が起こる原因といいますか,マンネリ化に至る過程というものは,右のように説明を試みることができます。

 単純な作業,単調な繰り返し。もしも刺激的でない日々を送っているのだとしたら(刺激的過ぎても,それはそれで書く気力が失せるやもしれませんが。),その作業がいくら大いなる意義を持つものであるのだとしても,マンネリ化したとあれば,かかる意義を徐々に見いだせなくなってゆくのは,想像に難くありません。

 利益がだんだん見えなくなってきた,わからなくなってきた。だからやっている意味がないのではないか,なぜ続けているのだろうか,と疑念をもつこととなるわけですね。

 あることを長期的に続けていて,かつ,それを続けることがマンネリ化しているとき(「飽きているとき」,と言い換えても良いでしょう。)に,以前と同じことをしていても,依然としてマンネリ化した状態は改善されないわけでして,その意味で,気分を変えることというのは,重要になるわけであります。たとえば,いつも犬の散歩に行くとき,河原を歩くルートを選ぶ。でも,何年も,毎日同じルートを歩いていたとしたら,(心底その景色が気に入っているというのであれば,それは別として,)やがて飽きてくることは必至ですね。日記とて例外ではありません。

 いつも同じ書き方,いつも同じ筆記具,いつも同じ時間……。いつも何々をする,とひとたび決めてしまうと,何々をしなければならない,と思い至ってしまうものです。日記が続かない原因のうち一つは,ここにあります*2。すなわち,ルールによって,自分自身を縛りすぎてしまう,ということです。ダイエット然り,筋力トレーニング等の肉体改造然り,です。

 日記に関して言えば,日記を書き続けている方なら分かることと思いますが,同じノートに延々と文字を書き連ねること,毎度ほぼ同じ筆記具にて,日々の生活を記録し続けること。このようなことに,飽きを感じるわけです。

 初日から相当期間までは,新しいことをする喜び,それに伴う目標,さらにそれを達成する喜び――要は,達成感や開放感によって,満足感が得られたなら,意外といろんなことにチャレンジすることは可能なのです。ですが,どうしても飽きが来てしまう。そのようなときには,言わずもがな,心機一転目標を改めるとか,目的を再確認し,自己暗示によって再出発しようと奮起するとかいったことが必要となってきますね。

 そうすると,日記を書く上で,気分を変えるために起こすべき行動は,過去に続けてきた因習めいたマイ・ルールを打ち破ることだ,といえるでしょう。

 Ⅰにも示しましたが,筆記具を変えるということが,私が試した方法の一つでありました。はじめは,私は鉛筆だけで日記を生涯書き続けるのだ! と意気込み,実際にもそれで数年間通しましたが,飽きには逆らえませんでした。ボールペンを使ったのです。赤ペンを導入することもありました(特に重要なポイントだと思ったところなどに使いました。)。そうすると,不思議なことに,文房具たちに愛着がわいてきて,また使おう,もっと使おう,と思い,日記をつけることに繋がるわけでして,これはかなり多く経験しました。この方法は,正解だったのだろう,と推察します。

 筆記具を変えるということであれば,おしゃれな万年筆を使ってみるとか,水の表面をなでるようにサラサラ書けるボールペンを追求するとか,発色のよい鉛筆でもって文字を綴るとかいったこともできますね。いずれにせよ,気分を変えるうえでは,いずれの筆記具も非常に有用であることには,疑いはありません。

 他には,お気に入りのノートを選定する,ということです。たとえばパラパラ漫画の描かれたノートがあれば,毎日毎日,頁をめくるのが楽しみになって仕方ないでしょう。日めくりカレンダーのように,その日ごとに名言名句の類や,花言葉といったものが印字されていたり,図版でもって多種多様な工夫が施されているようなノートがあれば,そういったものを使うのもよいでしょう。前者と同様に,単調な日々の記録を,楽しみに昇華させることができます。

 何も筆記具だけを変える必要はありません。他には,常体(「~だ」「~である」を使う文体である,という説明が一般的であります。)を敬体(「~です」「~ます」を使う文体です。)に変えるといったことも,試みとして考えられますし*3,常体を,もっと砕けた口語・常体の混交文に変えるということも,十分有用であるように思います*4

 記法を変えるという意味では,たとえば,日付ごとにタイトルを考えて,つけてみるとか,ところどころ英語で記述し,おしゃれさを追求するとか,全部を英語で記述し,英語の鍛錬に励むとか(まぁ,こちらは少々アクロバティックではありますが)いったことももちろん,有用なもののうちに,含められるものと考えます。

 以上のような方法を用いることで,少なくとも,日記という活動を制限しうるマンネリ化という問題に,一石を投じることができるでしょう。この方法が万能でないことは認めましょう。しかし,マンネリ化の問題を解決するには,筆記具や文体,記法を変革せしめることが,何よりも肝要であることと思います。

 

 

以上,3.の1.を記述しましたが,この記事が相当程度に長いので,いったんここで一区切りとしまして,続きは,記事を改めて述べていきたいと思います。次回は,「日記を続けるには;その方法と実践(その3)」を予定しています。

*1:語弊のある言い方であったかもしれません。スランプ時において,日記を続けることそれ自体に疑問を感じているときに限って言えば,としておいたほうが良かったですね。私が言いたいのはそういうことです。

*2:この点,必要に応じて述べることがあるかもしれません。

*3:常体から敬体へと文体を変える方法は,実際に私が試したものです「不気味の谷」をここで持ち出すのは畑違いであるかもしれませんが,常体あるいは常体・口語混交文で記述し続けてきたのを,いきなり敬体で記述するというのは,あまりにも,今までの自己自身と乖離があるように思われて,ゆえに不気味さを感じ,この不気味さを捨てきれず,いわば「不気味の谷」を渡ることができず,断念しました。それでも,半年近くは,この敬体で記述したことがあった,と記憶しています。

*4:後者の混交文については,私は,今もときどき,この文体で,ありのままの心情を日記に吐露することがあります。