偏光

日常のこと、いろいろ。

誤った意識からの脱却;受容か,あるいは思考停止か

 今回は,ほんの些細な出来事をもとに,少しお話をしていけたらいいなぁ,と思います。

 

以下,目次です。

 

1.愚痴

 

 先日,私が大学構内を歩いていると,ある生徒数名が,妙な立ち話をしているのを小耳に挟みました。聞けば,どうやらその学生らは何らかのクラブ,サークルに所属しているようでした。端的に言って,彼らは愚痴を言っていたのです。

 とりわけその数名のうち,ひとりの女子生徒は,恋愛について,やや過激に人物評をしていました。彼女は何を述べていたのかと言いますと,次のようなものです。

 

 「あの子は……(中略)……男に対していつも笑顔で愛想よく振舞っているくせに,裏では姑息な手を使って,……(中略)……あの手この手で周囲を貶めようとする。なのに,女に対してであっても,気に入った人については優しくふるまう。……(中略)……だから,女にはすごく評判が悪い。」

 

と。

 これ自体は,特に珍しくも何ともありませんね。いたって普通の愚痴です。文章にしている都合,実際の言葉はもっと口汚く罵っていたことを記憶していますが,そんなものは割愛します。恋愛がどうだといったことについては全く興味がありません。

 

 さて,これに対して,すかさず仲間の女子生徒が反応を示すのですが,これについて,私は疑問を感じざるを得ませんでした。何を言ったか。それは次のようなものです。すなわち,

 

「そうなんや。きしょいな。」

 

と。

 恋愛の話に,即座に,それも深く思考するよりも先に,いうなればあまり考えず,リアクション,すなわち「きしょい」*1との言葉を返しているのだと分析できますね。

 

2.不用意な言動をしてしまう意識(誤った意識)からいかに脱却するか

 

 ここで何が問題となるか。それは,余り考えずに「きしょい」との言葉が出てくることです。深く考えずに,眼前の事象について,即座に中傷的な言葉遣いでもってリアクションを示してしまうということ。私は,その意識に問題があると考えます。

 余り深く考えず中傷的な言葉を持ち出すということは,何にしても非常に危うい行動であるところ,そのような危うい行動は,予想外の状況に対面したときにこそ,無意識的に,しかも突発的に為してしまうものであるからです。

 無意識的に中傷的な言説をしてしまうこと。無意識的に何か社会的によろしくないことをしてしまこと。行動についても,私たちは無意識的に何か適切でない行動をしてしまうことがある,ということは,完璧ではありえない私たちにとって,言わずもがなです。

 

 不用意な言動によって己の社会的立場を危うくしてしまうというのは世の常です。身近な具体例を持ち出して検討してみようとする必要のないことが明らかであるといえるほど,政治に限らず,たとえば対友人といった私的関係においてもそのことは普遍的であります*2

 

 彼女が,仲の良い仲間と愚痴を言っている分には,多少の非礼があったとしても,些細な問題にはなりえません*3。ですが,社会に対する関係においては,そうはいきません。彼女がいつどこで,粗相をし,その割を食うのか,結果どうなってしまうのか,は知りえませんが,今,そういった意識が在るという問題をどのように解決すべきか,これを考えることはできますよね。

 

3.かかる問題はいかに解決されるか

 

 さっそく考えてみましょうか。いかにして,不用意な言動をしうる意識を,わたしたちの心から取り除くか。

 まずもって考えられるのは,考え方を改める,ということです。

 たとえば,男女平等について偏った意識を持っていると,いつ何時,ポロっとその差別的意識の片鱗が言動に現れるか,わかったものではありませんね。満員電車に乗っているとき,職場や学校で何か異性と共同作業をせねばならないとき。このようなとき,極端に偏った差別的意識(男は女の役に立たなければならない,男はガサツで鈍感だからどうせ何を言ったとて無駄だ……とか,ああいう言説によって凝り固まったものを,想像してください。)を持っていると,どうでしょうか。

 急ブレーキによって思わず他人の足を踏んでしまった,あるいは踏まれたそのたびに,「このクソ女は」と,聞くに堪えない恐ろしい言葉を,呟くことになってしまうでしょう。信じられないことかもしれませんが,このような言葉を吐いて捨てる男性は,実際,相当数いるものです。

 それではいけません。

 考え方が凝り固まってしまって,ついには歩く差別意識になってしまうでしょう。酸素を吸い込むように,偏った見方で異性を罵倒し,二酸化炭素を吐き出すように,考え無しに誰かを絶えず傷つけることになる,ということです。

 早急にこのような意識は唾棄されるべきですね(何を差別意識とおくかを考えることは,私よりももっと聡明な諸賢に任せておくこととします。)。

 ではどうすればこのような意識を捨てられるか。それは,特定の思想に触れ,傾向することを避けることです。デカルトは「我思う故に我在り(Cogito ergo sum)」などと言いました。思考が人格を形作る。それによって,さらに人格が固定化され,結果,その人の思想がその人の人格を体現することになる。わざわざ彼の,方法的懐疑による結論(上の名言に結び付きます。)を引用しないまでも,このことは,特定の思想に偏るならなお,自明のことであります。少々馬鹿げた言い方をしましたが,特定の思想に触れ続けると,その特定の思想に迎合した思想傾向を持つようになるというのは,じっさいよくあるものだといえるでしょう。

 たとえば親の問題です。子が跳ね返りをする場合があるとはいえ,親から,毎日「正しいことは,人に優しくすることだ,誰にでも優しくしなさい,それがた正しいことだ……」と繰り返し,繰り返し説かれたならば,きっとその子は,人に優しく接することこそが正しいことなのだ,という見方を持つにいたるでしょうね。

 あるいは宗教の問題。新興宗教イスラーム,仏教,キリスト……。ありとあらゆる宗教がありますが,宗教に熱心な環境に生まれながらにして身を置けば,自然に,神といったものについて,ある程度確立した考えを持つようになるでしょう。このことは,歴史にも表れていまして,たとえばアメリカに入植した最初期(当時はアメリカなんていう呼び方はもちろんありませんが)のピューリタンたちが,その子らに,非常に敬虔な態度で宗教教育を施していたことがその例です。

 

 以上の例からは,特定の思想に触れ続けると,特定の思想傾向を持つようになる――いわば染まる,ということが明らかであります。そうだとすると,悪い思想(社会的に善ではない思想)に染まることがあるとするならば,より良い生き方を求めるうえで,あるいは単に,大多数の人間の集団である社会から大きく逸れないまま生きるうえで,それは避けるべきだといえます。

 さて,次に考えられるのは,何も考えないことです。思考をやめることです。思わず「は?」と口に出した方がおられるかもしれません。ですが,これは本当のことだと私は考えます。この方法を採ることほど,簡単なことはありません。考えることをやめる。ただ何も考えず,すべてのことに耳を塞いで,何か見ても,特に考えないよう努める。何も言わない。そして,どうしても考えないことを理性が許してくれないときであっても,そういうこともあるものだ,と徹底的に考えることを放棄し,ただ世の中に対する諦め――厭世観といっても良いでしょうが――のうちに,ただ生きる。

 それだけです。これほど簡単なことはありません。この道を選び生きれば,何も感じなくなり,考えられなくなり,やがては,不用意な言動をしてしまうような,私がここで問題としている意識すらなくなるでしょう。問題は解決されます。問題が解決されるとあれば,良いことですね。

 ですが,この方法を採ることは間違いです。この方法を採って,私が呈示した問題が解決されたとしても,解決されて喜ぶならバカヤロウです。間違いでない場合もあることは否定しませんが*4,それでもやはり間違いです。

 

 上に述べた方法は,まさに「見ざる,言わざる,聞かざる,せざる」ですが,これほど残酷なことはありません。大切なものすべてが失われていきます。具体例があまりにも多すぎるので,あえて例は示しません。ですが,中傷的に言うなら,生きる喜びが失われていく,ということです。マシンのようにただ生きることがいかに恐ろしいのかは,苦しいことが多くても,ときどきやってくる幸せをかみしめ生きている大多数の人には,察するに余りあるものでしょう。苦しいという感情さえ失われていくことでしょうから。まさにマシンです。

 

4.まとめ

 

 さて,二つの方法を検討してきました。一つは前向きな道どのようにすれば行動や意識を改められるのか考え,そして,旧来の考え方を改めることで,適切でない思考・言動をしてしまう意識からの変容を目指す,という道です。二つ目は後ろ向きな道考え方を改めるということはせず,すなわち不適切な意識を改めるということは諦め,考えることそれ自体を放棄するという道です。どちらが良いのかは考えるまでもなく前者ですね。

 ただ,後者とは違って,前者には大きな苦難が伴うでしょう。良いことばかりではありません。温泉に使っているときほど気持ちのよいものはありませんが,あえてそこで水風呂へ入るというのは,苦難と勇気,覚悟が伴うものですから。それでも,今まで検討してきたような問題に直面し,解決する必要があるときには,意を決して水風呂に入らなければ,どこかで失敗をすることにもなろうかと思います。

 言うほど簡単ではありません。実行するのは困難です。立場の違う意見を受容すべく努めること,そしてそのうえで,自己自身の意識を改革していくこと。これは恐ろしく大変な作業です。かくいう私も,満足な考え方,意識を持てているかというと,決してそうではありません。不完全なままなので,あたかも自分自身の意識が一生不完全で不健全なままなのではないのか,と,空恐ろしくなることもあります。でも,それでも,考えることをやめるわけにはいきません。

 

 禅語に「脚下照顧」(この言葉はそっくりそのまま私自身にも当てはまる言葉なので,耳が痛いのですが……。)という言葉があります。意味は,他人にばかり悟りを促していないで,まず自分の足元を見て(自分のことをしっかり見つめて),考えなさい,と言う言葉です。この言葉をここで持ち出した以上,違わないように,謙虚で質実な言動を心がけたいと思います。

*1:「きしょい」という言葉は,日常使う人もいるでしょうし,定義を示すほどではないのかもしれませんが,一応,「『気色が悪い』を略した若者言葉。同様の意味で『キモい』があり、こちらは『気持ちが悪い』を略したもの。」(『実用日本語表現辞典』)とされていることを申し添えておきます。

*2:敢えて政治の例を示すなら,最近であれば「身の丈発言」問題が挙げられましょうか。

*3:誤解があるかもしれないので,補足しておきます。大きな問題になることは当然考えられることですが,それは,私的関係においてそうなるに過ぎないのであって,社会的非難の対象になるとかいったことはまずもって無いものと捉えて良いであろう,ということです。せいぜい,縁が切れるとか,金銭的トラブルであれば軽い裁判になるとか,平手打ちされるとか,そういった程度です。私的な関係において,非礼を理由に,たとえばバイトテロのように,実際上の大きな問題になることは,ほとんどないといってもよいでしょう。

*4:ただ死にたいというだけではなく,自殺をするという意思が極限まで高まり,もう後にも引けず,ひくつもりもなく,行動に移す数秒前である,といったときです。この場合,もうあとに残すものがありません。死ぬだけですから,考える必要はありません。ただ,それでもいろいろと想ってしまうものでしょうが。