偏光

日常のこと、いろいろ。

就活はクソである。

 就活はクソである。

 クソであるからして,クソ以外の価値がそこに見いだせるはずはない。就職活動中に「わたし,圧倒的成長☆♪( *´艸`)」などというのは虚妄に等しい。実際の就職活動ということを考えてみればそれは歴然たる事実である。

 就職活動の核をなすのは自己分析と,適性検査。つまりは,自己分析においては履歴書やエントリー書類作成のために自分という商品にいかなる魅力があるか,分析するのであり,適性検査対策においては,ひたすら読み,書き,そして数的な処理に柔軟な対応をすべく問題演習に励むのである。これらの過程を経て,無事採用選考へと進むことができる。言うまでもなく採用選考は企業にとってみれば人を選ぶ機会でもあり,悪く言えば上澄みだけを選びその他一切の有象無象は蹴落とすためにある機会なのである。この活動の帰結が「お祈りメール」である。「貴方様の今後今後のますますのご活躍とご多幸をお祈り申し上げまして……」というアレだ。

 落ちたからには原因がある。改善すべきところがある。これには疑いがない。アピール不足であったのか,「自己分析」に足らぬところがあったのか。改善点は早急に正すべきである。学生は,その改善点を認識している場合も勿論あるが,そういったことを大学の就職支援担当部署からアドバイスされたり,先輩や親類からアドバイスされてはじめて気づく物事もあろう。いずれにせよ,改善点はすぐに正すべきである。なぜならば,次の就職活動につながらないばかりでなく,よしんば当該企業に縁あって就職できることとなったとしても,その企業でうまくいかず退職を検討するほかなくなるおそれは十分にあるからである。また仮に,根本的に性格に難ありとなれば,原因を突き止めて早期の解決を図ることが何より望ましい。言わずもがなである。

 そもそも就職活動を何のために行うのかと言えば,ひとえにより良い就職をするために他ならない。大学進学率が増加し大卒というカードを切れる人が約半数にさしかかろうとしていることは今は傍に置いておくとしても,高い授業料を払い続け,ときには奨学金を借りさえして大学に居続け,就職活動をするからには,その大義として確たるもの――より良い就職,ということがあるのである。より良い就職が出来たならばその後のライフプランにもゆとりが生まれ,QOLの向上に直結しうる。恋多き人であれば子どもをもうけ育てていくということさえ考えるだろう。それはそれで大いに結構なことだ。

 このように,就職活動の意義は確かに大きい。私とて,就職活動を行うことの,プラスの面を完全に否定してクソだなどと強い言葉を用いるつもりは毛頭ない。別に今この駄文にて就職活動のメリットを列挙し賛辞を贈る必要性は感じないが,根本的に否定するつもりはないと明言しておこう。だが敢えて言おう。就活は,クソであると。

 就活をクソと断じるからには,私が就活の何をクソと感じているか述べなくてはなるまい。

 まず演技性について語ろう。次に,ピア・プレッシャーについて語ろうと思う。そして最後に,社会に対して呪いを吐いて,己を呪いこの駄文の幕引きとしよう。

 演技性。熱心に活動されておられる高貴なる意識高い系の皆々様にはきっとご理解いただけないのでしょうが,誰もが就職活動に熱心でいられるわけではない。あたかも全員が就職活動においては同じスタートラインに立って,同じように選考に邁進するものと想定されている点がクソである。その想定というか思惑は,随所に現れているように感ぜられる。たとえば大学の就職支援の部署の総意(係員や,その部署の長の話などに現れる)であり,就職支援を標榜する各種ウェブサイトに掲示されている文章等であり,就活生に近しい人物たちの発言においてである。押し付けがましいというのが,就活生である私の所見である。

 だいいち,人によって熱意に差があり,それに伴う行動の熱量にも差が生じるのは当然である。人は人によって己が持つエネルギー量に違いがあるからである。念のために言うが太っているとかそういう話ではない。ここで言いたいのは気力のことである。

 人によって熱量が異なるのであり,熱心に活動できる人もいれば,一所懸命に集中して行動する人もいる。再び念を押すが,その熱量の差が善であるとか悪であるとか,そういった低次元の話をしているつもりは毛頭ない。もしここまでの文章を読んで,「ああこいつは熱量がないのを悪いと言ってるんだな」などといきり立った人は,いますぐブラウザを閉じることをお勧めする。頭を冷やしてほしいのだ。俯瞰が必要だ。……そう,熱量が人によって異なるのは当然であるところ,全員が気力十分,就職活動にのぞんでいるはずもないのである。ここで,お前自身の言い訳だろうと言われたところで別に否定はすまい。

 実際周りを見渡してみれば,就活生各人には温度差が激しく存している。知人らの言を引用すれば,国立大に通う者は「おれは『大企業病』なのかもな」などと言い,国立大というステータスをもってして大企業への選考に進み,果ては安定した地位や収入を得たいと望む。また,同じ大学に通う者でも「別に,やめたら意味なくない?」と言い,大企業は一応狙っていようとも,本当に自分が数年後,十年後,十五年後……と,ずっと働き続けていられるかどうかを基準にして,本当に自分にあった職探しを試みている。

 インターンシップにしてもそうである。ある者は「会社自慢に終始するなら行く必要性は感じない」と言い,またある者は「何がしたいか不明な自分の状況からして,行った方が何かきっかけを得られるかもしれない」と期待を寄せるのである。

 このように,人によって熱量が違うのは当然である。熱量が違うということは,就活生を取り巻く常況も異なるということに他ならない。なれば,全体へのメッセージや思惑として統一した意見を押し付けるのは不相当であることが,ご理解いただけよう。

 さて,就活生個人個人によって状況が異なるとわかったところで,彼らが求められる行動とは何であるか。それは,演技である。ロールプレイと言い換えても差し支えなかろう。社会によって気炎万丈な就活生と想定されているからこそ,彼らはそうふるまわざるを得ないのである。ありのままの自分を見てほしい! ということで寝間着を企業に晒すのは問題外であるが,就活で聞かれるのは「夢は?」「希望は?」「十年後のあなたの姿は?」といった抽象性の高い質問ばかりである。仮にこれらの質問が,未知なる問題に対する対応力を測るものであるのだとすれば,面接官は極悪非道,まさに悪魔と言わざるを得ない。なぜならば,面接官がその質問の文言の意味するところをしっかり理解して使っているか,怪しいからである。

 自分の手のうちを見せないで答えを得ようとするのは,さながら万引きである。思考の万引きであり,人間性の略奪である。もちろん,合理的な質問は喜んで答える。志望動機は? 何がしたい? これからこの会社でどのようにしていきたい? といったことである。これは会社に入る意思を確かめるもので,納得できる。だが,夢や希望などを語ったところで,それが何になる? 就活生にした質問をそっくりそのまま面接官に逆質問したとき,面接官は果たして答えられるだろうか? 全員が等しくこたえられるならば就活生冥利に尽きるが,そんなことはありえない。就活生の中には厭世感に満ち満ちた人も多いはずである。であるのに,上のような面倒くさい質問を繰り返す輩は,残念ながら確かに存在している。このような質問を受けたとき,わたしは何か人間存在を犯されているかのような心持になる。

 しかし,このような本心を,応募書類に描いたり,採用面接の場でつらつらと語ってみせることなどとうていできない。自分自身の威信が傷つくような気もする。

 そこで就活生には何ができるか。どんな対抗策があるか。根本的には,何もない。ただ目をキラキラさせて,一所懸命採用の現場に身を投じるしかないのである。しかも,それを受けたい会社の数だけ。内容をその会社ごとに変えて,自分自身という商品を魅力的に,高く売ろうとするう。資本主義の奴隷になった気分である。

 この点では,高貴なる熱意溢れんばかりの就活生のみなさまにとっても例外はない。一律にすべての企業に同じ文言で同じ志望動機を語るとすればこの上ない阿呆である。阿呆ではないからこそ,企業によって手を変え品を変え,のぞむのである。だが,高貴なる熱意溢れんばかりの就活生のみなさまにとってさえ,何十社と受験していれば,志望動機の在庫など底をつくであろう。動機というのはそうやすやすと生じるものではないからである。本音のレベルであれば,「ネットでちょっと調べてよさそうだと思ったから」「給料がよさそうだから」「福利厚生がしっかりしているから」などといったことが,彼らの志望動機の中核を担う。企業側に言わせてみれば,あるいは「それでも志望動機としてちゃんと仕上げて,アピールできるんだからやはり優秀に違いない」となるのかもしれないが,それはそれで問題だ。何のために,何をするために就活生が採用の場に現れたのか,本質を見抜けていないだろう。

 いずれにせよ,本音で語ることができない以上,演技するしかない。できることは,本音を隠し心を殺して,魅力の香りがぷんぷんする商品になり切る。じつに演技性の高い行為なのだ。

 次の観点に話を移そう。

 ピア・プレッシャー同調圧力である。これについては特に深く言うまい。口語にすれば「同調圧力が辛い(´・ω・`)」ということである。同調圧力といってもそのあらわれ方にはいろんなものが想定できるが,ここでの同調圧力とは,たとえば大学受験のように,周りが大学に行っているから大学に行く,周りが就職するから就職する,といったような現れ方を想定する。身近なものがある特定の方向に進んでいるならば,同町圧力によって我も同じ方向に進まねばならなくなる。これは就職活動の実際においても存する。

 もちろん高校の時分より大学へと,時がたつにつれそのあらわれ方はかなり穏やかになるものである(人によるが)。大学は高校より人間関係が希薄になるからである。皆それぞれが人との距離感を保ち始めた頃合いが大学時代である。特に語る必要性も感じないので,例を示すだけにしておこう。

 たとえば,周りが公務員受験生ばかりの場合,「あれ? 公務員受験じゃないの?」と頻繁に語り掛けられるとか,民間ばかりであっても「え? 大学生なら,そんなところ行かなくたっていいんじゃないの?」とかいったことである。心を強く,己の芯を確かに持つ人にとっては縁のない話であろうが,これはこれで結構傷つくものであり,不安を誘うものである。

 同調圧力が現れる大学のシーンは,何も友人関係においてのみのものではない。幾度となく触れている就職支援部署。彼らは,有益な情報をたくさん発信する。大学生,ことに就職に敏感な大学生にとっては,かけがえのない心のよりどころであり,杖であり,力である。しかし反面,彼らは大学生に対し就活の何たるかを教えんとして,ひとつの意思として,強い言葉でもって煽り,牽制する。渇を入れる,ハッパをかける,と形容するのがふさわしいだろう。これによって否が応でもやる気を出して何をか取り組まざるを得なくなるという意味では,決して悪いことではない。だが,かかる意思に従わざるを得ない立場である以上は,示された非常に地道で曖昧な道筋を,これまた曖昧で信憑性のただ一つの可能性さえない他人の意見をさも恭しいお言葉であるかのように聴き,取り入れるしかないようにも思える。

 就活生は,資本主義のもと,自分という価値を,商品を,売り出すためにそれら意見をフル活用してはまた次の就職活動へとつなげていくのである。

 同調圧力の実際は,このようなものである。

 次,社会の意識。これについても,多くは語るまい。社会は,高校生諸君のセンター試験や大学生諸君の就活に敏感であるように思える。だがそれは世代間対立をあおる材料になりうる。就職氷河期世代と言われる先輩方がほかならぬ政府の手で事実上見殺しにされた事実は許しがたい。コロナ禍によって現在の就活生も同じく就職氷河期なのではないかと言われているが,彼らが味わった不安,絶望,苦悩はまだこれよりも酷かったのではないかと想像すると,なんともまぁやるせないものである。まだ機会に恵まれているかもしれないと考えることすら傲慢であるかのように思えるところである。

 茨木のり子さんの有名な詩によれば,「駄目なことの一切を」「時代のせい」にすることは「わずかに光る尊厳の放棄」らしい(「自分の感受性くらい」より引用)が,その尊厳を捨ててまで社会のせいにしたくなるものである。機会なければ人権なし,とでも言いたげなこの社会に。

 いろいろと書いて,長くなってしまった。要するに,理想の人格を演じなければならない点,それを余儀なくさせる同町圧力と社会によって,私は就活をクソだと感じているから,クソだと断ずるのである。

 まぁ結局,悪いのは自分なのだという感覚,思いは常にある。いかに就活がクソであろうと,私はもっと前を向いて強くありたいものだ。どんなときであっても,志高く,心を強く,したたかに世の中を渡り歩いて行ける人は,必ずいるのだから。

 

「捨てられないもの」

お題「捨てられないもの」

 

久しぶりの、ブログ更新。

何気なく、「お題スロット」を使ってみると、「捨てられないもの」と出た。

「捨てられないもの」。捨てられないものはあっただろうか。あまり考えたことのないテーマだ。

本。記憶。愚かしさ。思考。今まで綴ってきた日記。

パッと考えただけでもこれだけ思いつく。

厳密に考えれば本や日記は捨てられるものだし、家電なども勿論捨てられるものだ。その気になれば……。

一方で、記憶や己の愚かしさは、どのようにあがいても捨てられない。

記憶は捨てられない。経験的である。忘れることはあっても、何らかを引き金として再び思い起こすものである。自我から無意識の領域に記憶が後退することはあるようだが、それはもはや心的外傷後ストレス障害のように、尋常ではない状態であろう。だがその後退した記憶であっても、治療の過程で自我にのぼってくるものである。記憶とは、心という地中深くに打ち込まれる杭のようなものなのだろう。際限なく深く打ち込まれる。そのあたり一面に立っている杭を活用すべく引き抜こうとすることは簡単でも、だが完全に引き抜くことはできない。また、一見、そのあたりには何もないようでも、実は確かに、杭として記憶が打ち込まれているのである。

愚かしさはどうであろうか。愚かしさとは、逸脱しているということである。すべきでないと知っているのに、その通りにできないことである。あるいは、気づかずにすべきでないことをしてしまうことである。結果的に逸脱することが愚かしいのである。この愚かしさも、やはり捨てられない。人間は決して完璧ではなく、逸脱することも相当ありうることであるからである。

経験も捨てられないものだ。記憶は経験であり、経験は記憶である。思考も経験的であり、記憶に密接な関連を持つとみてよいだろう。一説によれば人間の脳というものは常に脳内において思考するようにデザインされているのだという。その思考を放棄するとなれば、これは尋常なことではない。思考を放棄するならば過去の経験や記憶をいったんは放棄するということに等しい。思考を放棄する方法は、たとえば瞑想のように、無くはない。だが決して簡単なことではないのである。’Cogito ergo sum’と言ってのけたデカルトに従えば、思考の放棄は人間性の放棄である。

ゆえに、どのようにあがいても「捨てられないもの」として、上にみたようなもろもろが、ここに含められよう。

さて、記憶といったことは決して捨てられないものだとして、本や日記といったものが「捨てられない」のはなぜか、改めて明らかにしておこう。

上でちらりと書いたように、その気になれば勿論捨てられるものばかりである。物理的に処分できるものだからである。人によって、この物は違うだろう。たとえばプラモデルであり、カメラであり、パソコンであり、砂時計であり、ネックレスであり、リングでもある。

要するに、「捨てられない」ものが何であるかは問題にならない。では、なぜ捨てられないのか。それは思い入れの強さの問題である。思い入れが強いからこそ、大好きな本や、大切にしてきた日記やその他もろもろを捨てられない。コレクターが好例である。思い入れが強くないものと、それを比較したとき、このことは良くわかる。

たとえば百円均一で買った大学ノートは間違いなく捨てられるものであろうが、なけなしの小遣いで買ったきれいな装丁のノートは捨てられないものであろう。そこに付加価値を見出しているということである。すなわち、どちらのノートであっても本質的には何の違いもないのだが、前者には百円の価値と等しく百円の価値を見出すが、後者はそうではない。勿論金銭的な違いはあるけれども、「なけなしの小遣いで買った」ぶんだけの価値が加算される。ゆえに「捨てられないもの」になるのである。

大切にしたいものはどこまでも大切にする。文字通り「捨てられないもの」として丁重に扱うということである。しかし、大切でないものについては、どこまでも大切にするというわけではない。このことは、モノに対する態度だけでなく、ヒトに対しても普遍的であろう。また、私自身にのみ妥当するのではなく、およそ他人にも普遍的であろう。だからといって何かを言うわけではないが、そういうものである、ということである。

気取らない愛

 つい最近、わたしの下宿先の裏庭に花が咲いているのを見つけた。ピンク色のような何とも言えない色で、非常にかわいらしい。迷わずシャッターを切った。

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 どうしても気になって、さまざまな植物についての情報が載っているウェブサイトで同定を試みた。花弁は5枚、葉っぱは……と。
 どうやら「オトメザクラ」という品種らしい。乙女桜と当てる。プリムラ・マラコイデス、とも。中国原産の一年草で、早春の花だ。しかし確証はない。
 そこでMastodonで同定の協力を呼び掛けてみると、下の画像の通り、情報をいただくことができた。改めて感謝申し上げます。

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提供していただけた情報。感謝申し上げます。

 オトメザクラで間違いなさそうだ。
 さて、オトメザクラだと確信したところで、気になってくるのは花言葉だ。さっそく検索する。
「気取らない愛」
「運命を開く」
 これがオトメザクラの花言葉らしい。

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 なるほど、気取らない愛を花言葉に擁するのもうなずける。

 明るい日陰にひっそり生きる。ソメイヨシノのように「優れた美人」であるさまを気取って見せつけているというわけではないけれど、しかし確かに美人であり、愛らしいのだ。

 この花は、日陰にあってこそ映えるのかもしれない。

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 「運命を開く」という花言葉については、由来はちょっと分からない。けれど、命名者は、明るい日陰でひっそり佇むようなこのきれいな花に、何か運命的なものを感じたのだろう。

 オトメザクラは、今日も風に揺れている。

東日本大震災を思い返して

 東日本大震災で被害に遭われた方々に謹んでお悔やみ申し上げます。

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内閣府、防災情報のページより引用。

 

 3月11日、大災害が東北地方を襲ったことは今でも忘れることができません。

 

 日増しに増えていく死者数、濁流に飲み込まれていく街。連日の報道、耳障りなまでに繰り返し流れるACのコマーシャル。どれをとっても、それがつい昨日のことであるかのように鮮明に思い起こされます。

 日本にとっても、また世界にとっても、東日本大震災は大きな驚きをもって受け止められました。もちろん、わたしにとっても。

 

 東南海地震発生の危険性はかねてより提言されてはいたようですが、東日本大震災を受けてその危険が目前のように迫っているのだと誰もが思い知ったのではないでしょうか。その意味では、それまでの危機意識との関連で、あの震災はひとつの分岐点であったのかもしれません。

 

 震災から10年近く経った今でさえ、完全な復興はなしえていないのだと聞きます。

 それでも風化していく意識。戦争と同じです。

 

 あの震災で被害にあわれた方にとっては、震災の脅威・影響というのは今なお現実の問題として在るでしょうが、残念ながらすべての地域においてその問題意識があるわけではありません。

 日々震災のことを思い出す生活をしているかと問われれば、そうではありません。もちろん時折思い出すことがありますが、やはり改めて当時のことを問い直すにあたっては、こうして年が巡り、ひとつ忌を重ねるごとに思い起こすのみです。

 我ながら残念なことです。

 

 当時のことを思い返してみれば、震災のショックからややあって、新聞記事や報道写真集を丹念に読み込んでいた記憶があります。その中でも印象に残った一枚の写真があって、それは、倒壊した家屋の前で泣き崩れる一人の女性の姿を写したものです。

 なんとなく、その写真をインターネットから簡単に拾ってくるのは憚られて検索さえしていませんが、その写真は今も私の脳裏をよぎります。

 

 彼女が何を思っていたのか。察するに余りある、というものです。

 悲しいかな、あまりにもむごい悲劇の前にあっては、本人の抱える悲しさを想像することしかできません。

 

 阪神淡路大震災の折、火事の中に母を残して逃げた娘に話を聞いた巡査の独白の新聞記事を以前読んだことがあります。

 その母は、懸命に「おかあさん」と呼び続ける娘の手を放し、ありがとう、もう大丈夫だから、と言ったといいます。娘はなんとか逃げ延びて避難所にいたところを巡査に声を掛けられたという経緯です。

 娘は、手に母の遺骨の入った鍋を抱えていたといいます。

 そういった経緯を泣きながら、しかしまっすぐ前を見据えながら懸命に話す娘の姿に、その巡査は、生まれてはじめて神に祈ったとか、立ち去るよりほかなかった、などと吐露していました。

 

 阪神淡路大震災での犠牲者数も相当なものですが、東日本大震災はそれ以上です。当時を語る体験談は多くありますが、たとえば上にて紹介したような小さな物語が至る所で繰り広げられていたのだと想像すると、もう言葉が出ません。

 

 こうした悲劇と、日常のさまざまな悲劇とを比べると、後者はあまりにも小さく見えます。もちろん痛みを比べることはできないわけですし、どんな悲劇に出会おうと本人にとってはそれは厳然たる事実として在るわけで、喫緊の問題ではあるのですが。

 

 しかしそれにしても、突然平穏な日常が破壊されて命さえ奪われてしまうような悲劇は、想像できる範疇を超えているようにも思われるのです。

 波間に飲み込まれていった方々の苦しさ、恐怖、絶望は、それこそ海で死に直面したことのある人にしかわからないかもしれません。

 

 できることは、ただ彼らの冥福を祈るのみです。そして、彼らの死を踏み越えて生きる私、私たちにできることは、決してこの経験を無為にしないことです。

 

 改めて、東日本大震災において被害に遭われた方々に謹んで哀悼の意を表します

 安らかで静かな幸福が訪れることを願ってやみません。

京都さんぽ

 先日、八坂神社から清水のあたりを散歩してきました。きっかけ、といっても散歩ですから理由も何もないのですが、ちょうど空気も温かく、外に出るのには絶好の日よりでした。

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八坂神社。

 世間を騒がせているコロナウィルスですが、その影響あってなのか、祇園のあたりはいつにもまして人がまばらでした。しかしそうはいっても京都ですから、人が少ないな、と感じるほどではありません。祇園の京都四条南座のあたりは特に多かったです。

 お店の人も道行く人々も、みんなマスクを着用していたのが印象的でした。

 八坂神社境内を通り抜けて、清水寺へ。

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 一念坂から二寧座、産寧坂のあたりを散歩しました。

 この写真の近くで何やら売店が新しくオープンしたてとかで、爽やかなお兄さんが売り込みをされていました。

 途中、着物を着た女性の方々がたくさん固まっている場所がありました。何なのだろう、とみてみると、道の先には庚申堂がありました。写真は撮っていませんが、八坂庚申堂というらしいです。

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順不同ではありますが、いずれも二寧坂、産寧坂付近の写真です。

 これらの写真に写る人はいずれもまばらではありますが、実際はもっと多かったです。こと産寧坂から清水寺へ抜ける道にいたっては、特に人が多く歩いていました。男女ともに着物の方が多くおられて、パッと華やかな印象でした。

 どの瞬間を切り取っても京都らしい風景になるのは、この街路あってこそなのでしょう。

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尺八奏者の方と犬。なんともまぁ京都らしいな、と感じました。

 さて、坂を上り切って清水寺へ。

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清水寺仁王門前。

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別の角度からも仁王門。

 今回は清水寺へ入りませんでした。それは時間の問題があったからということもありますが、何より、入るならもっと写真を上手に撮れるようになってから気合を入れて入りたい、という思いがあったからです。清水寺の中には、清水の舞台は勿論のことですが、音羽の滝など、ほかにも撮るべきものがありますし、それらをきれいに撮れるにはまだまだ力量不足だなぁと感じていたからです。

 

 さて、門の前でもたくさんの人がいまして、みなさん一様に写真を撮っていました。周辺をぐるぐる歩いているうちに気づいたのですが、石碑に「念被観音力」と刻まれたものが鎮座していました。「念被観音力」というのは「観音経」でおなじみの妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五に繰り返し登場する文言です。その意味としては、さしずめ「観音さまの御力を念ぜよ」、といったところでしょうか。

 清水寺の本尊が何であるか知りませんでしたが、この石碑からして観世音菩薩なのかな? と思って、帰宅後調べてみると、やはり本尊は観世音菩薩でした(正しくは、十一面千手観世音菩薩です。)。

 

 今回の散歩では特にどこの店にも寄り道はしませんでしたが、ざっと辺りを見回すとたくさんカフェや売店といったものがありましたので、そういったとこに寄り道しながら散策するというのも楽しいかもしれません。

 ひとしきり探索し終えたあと、帰路につきました。

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ネコがいました。ふてぶてしくてかわいいです

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三条大橋の下で一枚。

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こういう橋桁もかっこよくモノクロで撮れたらいいなぁって思ってます。

 

帰る途中に、桜が数本咲いていました。少し早めの春の訪れですね。七分咲きといったところでしょうか。

 もう卒業シーズンですね。卒業式を終えてきたばかりだという高校生たちが、桜の木の下で仲良く写真を撮っていました。

 コロナウイルスの影響という建前のもと、相次いで卒業式や入学式を中止するとの決定をされる大変な状況にあるなかで、卒業式や入学式といった「あたりまえ」の大切な行事を当たり前に迎えられるということは、実はたいへん幸せなことであったのかもしれないなぁ、とぼんやり考えておりました

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そんな春の訪れです。

 写真撮影に関して、RAW画像+JPGで保存するほうが良い、という意見を先日いただきました。今回写真を撮っていた感じでは、「もうRAWだけでよくない?」って思ってたのですが、どうやらそちらのほうがよさそうです。ちなみに職業としてカメラを撮る方はRAW画像入稿するとのコメントもいただきました。その場で写真の設定をいろいろいじくって一枚のjpegに仕上げるよりは、あとからじっくり検討して修正することのできるRAWのほうが、よりきれいな写真を仕上げるうえではよいのかもしれませんね。まぁもっともjpegにも利点はあるのでしょうが……。

 

 これから気候も良くなりますし、またいろんなところを散策したいと思っています。

ひとりごと

 ときとして特別であることを求められるものだ。特別でありたい人は,それはそれで問題のないことだが,特別であることを他人に求める人の,その在り方というのは,やはり問題があるだろう。価値観の押し付けに他ならないからだ。

 彼がそのようなことをするのは,彼自身が特別であるからか,あるいは,彼が特別でないがゆえに嫉妬してのことなのか。敢えて問うまいが,いずれせによその動機は不純であるといわなければならない。

 果たして人は特別でなければならないか。他人に秀でていなければならないか。

 答えは出せない。

ひとりごと

 行き場もなく名前もない感情がある。嫉妬と呼ぶには薄く軽く,寂しさと言うには何らかの欠缺があるというわけでもない。これはいったい何の,何のための,どこからくる感情なのだろう。

 知人……といっても年下の女性であるが,彼女が先日,恋人の両親と面会を果たしたという。「結婚」とまでは強く具体的ではなくとも,少なくとも同棲を前提とした恋愛関係を築いているという話は聞くに及んでいた。ゆくゆくは両家顔合わせに向けて進展していくであろうとのことだった。

 わたしくらいの年齢にもなれば,早い者は既に結婚が視野にあるらしい。逆に学生のうちは,強く結婚を意識することはない。現実的ではないからだ。しかし大学に行かず既に社会に出ている彼女らにとっては,結婚は非現実的ではない。

 要するに彼女らは,結婚を前提とした付き合いをしているのだ。

 此度の見聞以前には,顔見知り程度の同窓生が結婚を決めたということがあった。

 上にて「知人」としたし,今しがた「顔見知り程度」と形容した。この距離感が,冒頭で述べたような感情を生ぜしめている。彼女らは,わたしの所有物であるはずがなく,相互に親しいわけでもない。彼女らが結婚するについて,わたしが何か寂しさを感じるというわけではないし,それに焦りを感じるというわけでも,羨望を抱くわけでもない。しかし現実には何らかの名前のない感情がわたしの胸中にはある。この感情はいったい何と名付けられようか。もしもこの感情に名前を付けることが許されるのなら,その名前はいったい何になろう。